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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      基本財産造成の要請
 地方改良運動において町村の重要な課題の一つとされたのが、基本財産を造成することであった。元来、町村制の施行にあたっては、国家財源との競合を避けるため、町村の支出にはおもに財産収入をあてるという、いわゆる「不要公課町村」の理念が示されていた。しかし、現実には税収入に依存せざるをえず、財政の膨張にともなって町村税の比重はますます大きくなる一方であった。
 そのようすは、図28に示した大飯郡青郷村の歳入・歳出の推移からもよくわかる。明治三十七(一九〇四)、三十八年の日露戦争期には一時的な緊縮がはかられたものの、三十年代に入ってからの財政の膨張ぶりには目を見張るものがある。とくに、三十四年と四十年の突出は、学校の改築にともなう経費の増加によるもので、これも村税の増徴によって賄われていた。ちなみに、四十年代の県全体でみても、町村歳入に占める税収入の割合は七〇パーセント前後に達し、その額は二十三年の五倍強にまでふえている(資17 第52表)。
図28 青郷村の財政(明治22〜大正1年

図28 青郷村の財政(明治22〜大正1年

 このような状況をふまえて政府は、国家の財源確保を優先させるため、府県税・町村税の地方税における国税付加税(おもに地租付加税)の抑制(賦課率の制限)をはかり、本来の理念に訴えて町村基本財産の造成を強く要望したのである。
 町村の基本財産には、国税・県税の交付金や戸籍手数料、公共施設の使用料などを蓄積することが勧められたが、当然ながらその額は微々たるものであった。坂井郡本荘村のように、四十二年に村費で桐苗を購入して各戸に配り、二〇年後にその売却代金を基本財産に提供するという、気の長い約束事を申し合わせたところもあった(『坂井郡治概要』)。さらにまた、町村費の一部を基本財産に編入したり、町村民から寄付金を徴収することも行われたが、年々ふえつづける経費には及びつくはずがなかった。
 また、基本財産の造成は学校に対しても要請され、各地で学校林の設置や町村民からの寄付金の徴収がさかんに行われた。たとえば青郷村では、四十三年に各戸が収穫期に米・麦五合ずつを学校に寄付すること、四十五年には家内の出生や婚姻、年賀などの行事のたびに学校を一人の親戚とみなし、膳料の代わりに担税力にみあった一定額以上の金銭を学校へ提供すること、さらにまた村長が小学校の入学児童に桐苗をあたえ、一五年後に成木の半価を学校基本財産に提供することなどが規約されていった。次々に新たな名目や手段を考案して、村民からの資金調達がはかられたのである(「青郷村条例並諸規則」)。
 同時に学校に対しては、経済界で成功した地元出身者が多額の寄付金を提供することもよく行われた。財源に苦しむ町村が、一方では篤志家の財力に依存する機会もふえていったのである。



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