目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      町村事務の繁忙化
 当時の町村役場には、町村長、助役、収入役、書記、事務雇の吏員がおかれ、彼らは庶務・戸籍・兵事・議事・会計・社寺・学事・衛生・地理土木・勧業・国税・県税・村税などの通常事務のほかに、尚武会・農会・教育会・衛生組合・貯蓄組合など町村に設けられた各種団体の付属事務、さらに学校・病院などの公共施設の管理や産米審査、選挙事務などにも携わらなければならなかった。このうち教育や衛生、勧業、徴兵、徴税などの大半の事務は国から委任された仕事であり、国政事務の処理に追われる町村役場は、あたかも国家の出先機関と化していた。教育でみれば、明治四十年(一九〇七)に小学校の修業年限が二年延長されたように、日露戦後に推進された地方行政の拡充策が、国政委任事務の増加に拍車をかけたのであった。大野郡勝山町役場の「明治四十二年事務報告」は、吏員の執務状況について「一時間以上早出スル者多ク……祭日、日曜、土曜ト雖モ登場シテ事務ヲ執リ、或ハ夜業ヲ」なしていると記している。
 役場吏員のうち、事務処理の主力となる書記や事務雇については、明治三十年代に入ってまもなく、県から表91にみるような定員の標準が示されていた。いまここで、戸数約四七〇戸を抱える遠敷郡鳥羽村役場の事例をみると、書記がわずかに一人の時代が長く続き、ようやく三十六年に一人が増員、さらに三十九年と四十一年に各一人ずつが増員されている。当初は標準をかなり下回る人員配置であったが、四十一年からは書記四人・事務雇一人の体制が整えられたようである(『鳥羽村是』明治四三年)。こうした明治後期に書記の増員があいついだことも、この期に事務の繁忙化がいっきょにすすんだことを物語っている。
表91 書記・事務雇の定員の標準

表91 書記・事務雇の定員の標準
 しかしながら、問題は仕事の量がふえたことだけではなかった。郡役所による町村巡視の内容が見直され、これまで以上に町村事務に対する上級機関の指導・監督が強化されたのである。町村の巡視に際しては、事務処理の状況ばかりでなく、吏員と議員・町村民との関係や諸会議のあり方、町村税の賦課・徴収の状況、財産管理の仕方なども審査され、町村是に実行が期されたような町村経営の全般にわたる執拗なチェック項目が設けられていた(「町村巡視心得」)。そして、審査の結果はすぐさま知事に報告され、場合によっては県官が町村巡視に派遣されることもあった(「町村巡視規程」)。
 たとえば坂井郡では、毎年の巡視の成績に応じて町村に等級をつけ、不良と認められた町村にはさらに特別な指導・訓育が行われることになった(『坂井郡治概要』明治四三年)。また遠敷郡のように、町村事務の視察会を創設したところもあった。同会は、四十四年十月に発足し、毎年春秋の二回、各町村長や書記の一同があらかじめ指定された町村を視察するものであった。事務室の改造、備品の整頓、簿書の整理、基本財産の増殖、村誌の編さん、図書閲覧所や青年会施設などの状況を見て歩き、視察が終わると参加者による批評会が催されることになっていた(福井県『地方改良実例』大正五年)。吏員会合の機会をつくり、町村事務の優劣を競わせることがねらいであった。
 こうした町村事務の指導・監督によって、これまで等閑にしてきた条例や規程の完備をはかる町村が多くみられた。表92は、今立郡服間村の条例類を成立年順にならべたものである。明治後期に慌ただしく整備されたことがわかる。また、膨大化する町村役場の書類に対しても、四十一年に簿冊の分類整理の仕方や保存期限の標準が定められた(「町村簿冊整理規程」)。吏員のための事務講習会や研修会もさかんに開催され、事務処理の合理化・簡素化をはかる学習活動がすすめられていった。

表92 服間村の条例・規程類

表92 服間村の条例・規程類



目次へ  前ページへ  次ページへ