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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      町村の現状と課題
に共同体的な日常生活圏をなしていた旧町村の合併によって成立したものであった(第一章第四節三)。発足当初から旧町村(区あるいは大字)の寄合い世帯的な性格を持ちつづけていたが、ここにいたり、その内実を整えることが求められたのである。
 町村における地方改良運動の推進にあたっては、まず「町村是」を調査作成することが勧められた。たとえば三方郡では、四十一年五月に郡長が管下各村に対して村是調査の着手を命じたことが確かめられる(『南西郷村是』明治四五年)。ここにいう「町村是」とは、各々の町村が自らの手で沿革と現状を調査把握したうえに、将来に向けての目標や指針を打ち立てた書冊で、町村各自の地方改良運動を総覧するものであった。福井県では、大正五年(一九一六)までに全町村の九割をこえる一六〇か町村がその調査作成を終えている(資11 一―二五八)。いずれも模範的で、型にはまったところもあるが、ここではまず、町村是のなかで当時の町村が現状の問題としていたことをいくつか拾いあげてみよう。
写真94 『国高村是』

写真94 『国高村是』

 当時の町村といえば、明治二十二年(一八八九)の町村制の施行により発足した新しい行政町村であり、かつて末端の行政単位であると同時
 その一つは、土地の移動の問題である。多くの町村是が、「越石」「越地」、すなわち町村の範囲をこえた土地所有の状況を調べ、他市町村民が自町村内に持つ土地の買い戻しを望んでいる。なかでも敦賀郡中郷村の場合は、すでに自村の土地の四割強を他の町村民が所有し、しかもそれが年々増加する傾向にあり、生産力や財政力の面からしても、これを一村の存亡にかかわる重大事としている。またこれに関連して、村内の「地主ト小作人ハ、反目嫉視スルノ風ナシト謂フヲ得ズ……小作ノ転替、頻ニ行ワレ、地主ハ良小作人ナキヲ思ヒ、小作人ハ良地主ナキヲ憂フ」と、生産意欲の減退をきたす基として、地主・小作関係の悪化を憂えている(『中郷村是』明治四三年)。
 つぎに、人びとの生活意識やくらしの変化もよく指摘されている。たとえば三方郡八村は、「方今、都市ノ虚飾的美観ニ眩惑シ、少年子弟ノ世襲農業ヲ厭ヒ、京阪地方ニ赴クモノ日々多ク、為ニ本村ノ主業ナル農事モ衰退ニ傾カントスルノ虞レアリ」と、都市にあこがれる青少年の意識とともに、出稼ぎの増加が居村の生業におよぼす悪影響を危惧している(『八村是』明治四三年)。また今立郡服間村は、「行商者及出稼人多数あるの故を以て……動もすれば虚栄心を有し、身貧しきも都市の華靡を擬し誤るものなきを保せず」と、都市との交流が生活の華美をもたらしていると訴えている(『服間村是』明治四四年)。この点は、敦賀町に隣接する中郷村も、「下級ノ生計ヲ為スモノト雖モ、何レモ絹布ニ纏ワレ、到底貧富ノ差別ヲ識別スルニ苦シムノ状態」にあると、都市部の影響をうけて生活の華美が底辺にまで広がっていると述べている(『中郷村是』)。ここでは、何より都市との接触が、農村旧来の生活規範を打ち壊す誘因とみなされているのである。
 さらに、町村を構成する区(大字)のあり方がよく俎上に載せられている。すなわち、さきの中郷村が、「古来各々独立ノ一村ニシテ、町村制ノ実施トトモニ今ノ一村ヲ形成セルモノ故、各大字共、古来因襲ノ習慣、古例アリテ、互ニ異動アリ」というように、町村内に異なる旧慣を持つ区が割拠していることを憂慮している。こうした状況こそが、町村としての団結を妨げるというのである。
 また、町村民の間に租税を滞納する風潮が広がっていることも、多くの町村是が指摘するところである。
 こうした現状の打開を含め、「地方改良」の要請が町村にあたえた課題は、実に多岐にわたっていた。表90は、南条郡『国高村是』(明治四三年)を例にとり、将来の指針・目標として掲げられた事項をならべたものである。いずれの町村においても、これに劣らぬ壮大な計画を打ち立てており、期待される町村の前途はまさに遼遠たるものであった。

表90 『国高村是』の村是事項

表90 『国高村是』の村是事項
 



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