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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    二 「地方改良」と地域社会
      地方改良運動
 日露戦争を契機に、世界列強に抗するための国力の増進はいっそう緊急な課題となり、とくに地方に対して「国家組織ノ根源」たる町村の行財政機構の整備・強化や経済力の充実が叫ばれることになる。そのさい、財政の膨張や資本主義の発達にもとづく社会的な矛盾の発生という、体制的に避けることのできない問題を抱えていたことから、国家的課題の遂行に対する国民の自発的な同調がより強く求められなければならなかった。
 明治四十一年(一九〇八)には、「戊申詔書」が発布され、「宜ク上下心ヲ一ニシ、忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ、惟レ信惟レ義、醇厚俗ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相戒メ自彊息マサルヘシ」と、国運の発展に資するために国民生活における勤倹・協同一致の必要性が説かれた。そして翌四十二年からは、内務省により「地方改良事業講習会」が開設され、全国の地方官吏を集めて国家を支えるべき地方「自治」のあり方が指導・教授されることになった。
 それ以後、「地方改良」を時代のスローガンに、町村体制の再編強化をはかる種々の施策が打ち出され、町村有力者の指揮をうけて住民の実践運動が本格的にくり広げられていった。これを地方改良運動と総称する。ちなみに、この官製国民運動は、大正八年(一九一九)以降の民力涵養・国民精神作興運動、さらに昭和前期の経済更生運動へと引き継がれていくことになる。
 福井県では、四十二年の皇太子北陸行啓が一つの契機となり、県や郡市町村が競って各種の記念事業を起こし、地方改良運動の推進に大きな弾みがついた。



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