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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      小学校費の負担
 こうした多額の教育費は、どのように負担されていたのだろうか。町村教育費の負担構造が具体的にわかる資料は、ほとんど発見できなかったが、前述の南杣山村では、明治四十年代から大正期前半にかけての教育費の負担配分が、「歳入出予算精算下調書綴」(旧南杣山村役場文書)によってわかる。
 一村に規模の異なる二校を有するこの南杣山村の事例は、もちろん県下の一般的な事例とはいえないが、市町村財政と学校財政の関係について、一つの典型を示していると考えられる。
 南杣山村には、三十四年(一九〇一)の二尋常小学校の新築以来、日野川以西の鯖波・上別所・奥野々・関ケ鼻の四区からなる杣山校区と、東部の阿久和川に沿った阿久和・中小屋の二区による城山校区が存在した。両校区の県税負担の大半を占める地租割と戸数割の総額は、四十三年で地租割が杣山校区七二一円、城山校区七三五円、戸数割がそれぞれ三七四円、二五七円であった。また現住人口は、杣山校区七二九人、城山校区五四三人であった。
 四十三年度の村の予算に対する村税の負担配分は表89のとおりであった。村税の賦課は、その年度の予算に相当する額が、県税を基準に、年ごとに異なった賦課率で徴収された。南杣山村の場合、教育費については、それ以外の村予算とは区別して村税負担の配分が決められていた。四十三年では、教育費以外の予算八七一円に対しては、四割が地租割の付加税として、五割が戸数割の付加税として割り当てられた。

表89 南仙山村の村税負担(明治43年度)

表89 南仙山村の村税負担(明治43年度)
 これに対して教育費は、おもに戸別割から徴収され、その賦課率は、四十三年では教育費以外の予算の賦課率〇・六七五をはるかに上回る二・二七八という高率であった。これは、四十一年の「地方税制限ニ関スル件」(法律第三七号)以降、付加税の本税に対する税率が制限され、四十三年から地租割、営業税に対する税率が、大正八年(一九一九)までそれぞれ二一パーセント(田畑)、一五パーセントに抑えられたことによる。このため町村税の増加の大半が、制限のなかった戸数割に賦課されることになった。
 また、教育費の賦課率は、両校の予算規模の違いにもかかわらず、同率であり、これは明治四十一年では県税の一・〇九、四十二年では戸数割の一・四六と、他年度でも同率になっていた。このことは、町村内の賦課率を原則として均一とすることを定めていた町村制の条項(第九一条、四十四年改正では第九七条)によるが、このために、年度ごとに変動する両校の教育費は、おもに両校がそれぞれ有する学校基本財産へ繰戻金や繰入金を調整することによって、可能となったと推測される。つまり、教育費をそれ以外の予算と区別して徴収することと、こうした基本財産の調整によって、町村制の枠のなかで、相対的に独立した校区財政が維持されたといえよう。
 教育費以外も含めた村税全体の負担配分がわかるのは、表89の四十三年のみであるが、四十一年から大正六年(一九一七)までは、教育費のみ区別された村税負担の見積りが行われたことがわかる。
 ただし、校舎新築などで臨時の高額支出があるときには、臨時費分について、校区ごとの独自の負担が行われていた。四十三年の城山小学校の改築計画は、最終的には新築に変更され、その経費は追加分を含めて一六〇〇円をこえた。この超過分一〇〇〇円あまりは、寄付金の名目で、校下の阿久和区と中小屋区にそれぞれ五三二円、四八七円ずつ賦課された。その配分は、教育費と同様に地価割と戸別割として算出され、そのほとんどを戸別割が占めていた。
 このような教育費の負担方法は、大正四年四月に杣山小学校に高等科が併設された際に作成された「経費負担方法協定書」でも、確認できる。この協定書は、村会議員全員によって交わされたもので、その概要はつぎのようなものであった。高等科の経費は、城山小学校費と同率を杣山小学校下に賦課し、その額から杣山小学校の尋常科分の経費を差し引いた額をあてる。不足分は、村全体で負担する。校舎に要する臨時費は、校区の負担とする。ただし、高等科経費の「第一項前段」の負担額の半額は、村全体で負担する(旧南杣山村役場文書)。
 ここでは、経常的な尋常科の経費については、村税賦課率を同一とし、校舎の建築にかかわる臨時的な経費は、校区が負担することが明示された。また、高等科の経費については、校下に高等科がおかれる利便をうける杣山小学校区が、高等科の経常的な経費を基本的に負担するとされた。校舎に要する臨時費では、文末の「第一項前段」の負担額とは、臨時歳出の学校費(第一項)のうち、新築・改築に直接かかわる経費をさすと考えられ、経常費の不足分や校舎建築費の半分は、村全体で負担することで、杣山小学校の高等科が、村費によっても維持される村の高等科でもあることが示された。
 このように、南杣山村の資料では、校舎建築などで多額の学校経費が必要になる際には、校区が経費の大半を負担することによって、区の学校財政上で果たす役割は大きかった。とくに学校の新築・増改築があいついだ三十年代以降には、区の役割は、それまで以上に大きくなったと考えられる。
図27 小学校数(明治25〜昭和10年)

図27 小学校数(明治25〜昭和10年)

 また経常の学校経費については、行政村が、同率の村税負担の枠のなかで、村・学校ごとの基本財産の運用などで調整しながら、村税徴収を行おうとしたことは、急激に膨張する村内の学校財政を一定程度安定化する役割を果たしたといえよう。
 三十年代から四十年代にかけての校舎建築のうえでの、校区の役割の大きさは、学校統廃合に際して起こる紛擾の前提となっていた。県下の小学校数は、簡易科の廃止時に急減し、その後ゆるやかに減少していたが、四十一年からの義務教育年限の延長に際して、再び急減する。本校が、四十年から四十四年にかけて、三八八校から三〇一校と約九〇校減少し、それを補うように、分教場が五〇校増加した(図27)。こうした学校数の減少は、全国的にみられ、市町村の財政負担を軽減するために行政的な指導によって行われたものであった。急激な就学率の上昇は、校区の住民に多大な学校建築費を負担させたと同時に、それゆえに校区住民の学校への結びつきを深めており、福井県下でも学校統廃合をめぐるさまざまな紛擾を引き起こすことになった(第二章第一節四)。



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