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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      学校建築費と町村財政
 市町村の教育費は、就学率の上昇とともに膨張した。全県で、明治三十年(一八九七)一七万円から三十五年四一万円に上昇し、三十七、三十八年で三〇万円前後にやや減少するが、その後上昇し、四十一年以降大正五年まで、七〇万円前後で推移した。三十年から四十一年にかけての上昇率は、三・八倍にのぼっていた(図26)。市町村の歳出に対する割合は、二十五年の三割五分から変動しながらも上昇を続け、四十一年には五割をこえていた。
図26 市町村歳出に占める教育費(明治30〜大正6年

図26 市町村歳出に占める教育費(明治30〜大正6年
注) 『福井県史』資料編17による。

 こうした教育費の増加に対する国・県・郡からの補助金は、明治期では、市町村の教育費支出の一パーセントにもみたなかった。三十九年以降、国などからの補助金がわずかに支出されるが、商業学校や女子実業学校を対象としたものが中心であった。尋常小学校の設備に対しては、「教育基金令」(勅令第四三五号)による教育資金の貸付が行われたが、四十四年で特別会計歳出一万五〇〇〇円と、学校建築費に比べて少額であった。
 こうした教育費の上昇は、図26でみるように、おもに人件費の恒常的な増加と校舎新築・増築によるものであった。とくに校舎建築は、財政基盤の脆弱な町村にとっては、大事業であった。校舎建築の動向を統計的にみると、日清戦後に市町村が積極財政に転じ、三十三年の恐慌を経た三十四年前後と、義務教育延長による児童増加に対応した四十一年前後の二つのピークがみられた。
 南条郡南杣山村では、三十四年に杣山尋常小学校(二学級)と城山尋常小学校(単級)の二校を新築し、二三〇〇円の建築費を要した。これらは、主として借入金一二五五円、寄付金七五九円、村税の増加によってまかなわれた。村税のなかでは、三十二年で五三一円であった戸別割が、三十三年から三十六年にかけて、一二七〇円から一五三九円に急増した。こうした戸別割の増加には、三十三年の隔離病舎新築費(一一七九円)も含まれていたが、正教員の雇用や教科用図書や教具の購入によって経常の教育費も上昇しており、歳出に占める教育費の比重は高かった。また寄付金は、区ごとにまとめて校区の学校に対してなされており、また借入金の償還も、学校ごとの建築費、学校への距離、建設の経緯によって区ごとに傾斜配分された。さらに両小学校は、児童数の増加のため、それぞれ四十一年と四十三年にも増築を行っていた(旧南杣山村役場文書)。
 また、三国町では、三十八年から四十年にかけて二校の尋常小学校を新築・増築したが、このための用地買収費は二三〇〇円(三十六年)、建築費は三十八年と四十年でそれぞれ八〇〇〇円におよび、歳出に占める教育費は五割から六割五分を示した。これに対して、教育寄付金は、年額五〇〇〜八〇〇円ほどであり、大半は、二度にわたる借入金合計九〇〇〇円と町税(おもに戸別割)の増加によって支払われた。戸別割は、三十一年(三七〇〇円)から四十年(一万四二〇〇円)の一〇年間に、三・八倍になっていた(旧三国町役場文書)。



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