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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      実業教育への要求
 日清戦争後の輸出向絹織物業の展開と、福井市、敦賀町などの都市の一定の成長は、工業・商業教育への関心を高めることになったが、これらが県立学校として実現するにはさらに時間を要した。明治三十二年(一八九九)に設置された「福井県地方教育会議」(三二年県令第一号、三五年に廃止)では、福井県絹織物同業組合立の染織学校の県立移管が建議され、翌年に実現したものの、同校は一年で廃止されていた。工業学校よりは、工業試験場の建設が優先され、四十年になって工業試験場内に「福井県工業講習所」が付設された。
 これに対して、商業学校は市立・町立として設立されてくる。前述の二十九年の県会で可決された敦賀町への商業学校設立の建議は実現されなかったが、かわりに敦賀町と福井市では、町立・市立の商業学校が設立された。敦賀町は、三十四年に町立の商業補習学校を開設し、三十九年に乙種商業学校に、翌年高等科四年卒業程度を入学資格とする甲種商業学校となった。この町立商業学校は、大正七年(一九一八)に県立に移管するが、この時点までの卒業生二四七人中、七割が銀行・会社・商店・官庁の勤務者であり、自営業者は二割弱であった。また、全体の四割が大阪に在住し、ウラジオストクや「全満州」へ居住する者がそれぞれ一割あり、港湾都市の経済活動の広がりを反映していた。また福井市では、福井市教育会が福井高等小学校内に開設していた私立福井商業夜学校を母体に、明治四十一年に甲種の福井市立商業学校を設置した。福井市立商業学校の大正五年までの卒業生一四五人のうち、四割が自営業者であった。また五割が、会社・銀行・商店に勤務し、このうち五割が県外に就職していた(『敦賀市史』下、『福井市教育五十年史』、『福商六十年史』)。
 これに対して農業・漁業関係の実業教育が、まず県立学校として制度化されていった。二十八年に設けられた簡易農学校を改組して、三十二年には、甲種農学校とし(告示第二三号)、同時に独立した簡易水産学校も三十四年から甲種の小浜水産学校となった(告示第一〇七号)。



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