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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      尋常中学校の増設
 明治十九年(一八八六)の中学校令によって一県一校とされた尋常中学校への進学状況は、二十四年では男子五〇人女子四〇人の募集定員に対し、志願者二〇五人中一〇三人が合格していた。一般にこの時期の高等中学校への進学希望者は、東京などの私立各種学校へ進む場合も多かったが、中学校の設置制限によって、福井県では二十年代前半にすでに二倍の競争率を示していた(『福井新聞』明24・4・30)。
 このため入学定員(男子)を二十五年から翌年にかけて、九〇人から一二〇人に増加させ、二十六年には郡市別配当定員を定めた(告示第三九号)。しかし、二十五年の「小学校教則」(県令第二〇号)によって高等小学校の英語科が廃止されたなかで、二十三年から入試科目に加えられていた英語科が継続して実施されたため、二十六年には、福井県私立教育会から知事につぎにような建議が提出された。ここでは、県内で英語科設置の許可をえた高等小学校はなく、中学進学希望者のなかには「福井ニ出テヽ予修ヲナスモノ」もあり、「福井市人ノミ多クシテ郡村人至テ少ク、県立ノ中学校ニシテ殆ト市立ノ観アリ」として、高等小学校卒業者の無試験・優先入学、入試科目からの英語の削除を求めていた(『福井県私立教育会雑誌』号外)。このように二十年代半ばには郡部も含めた尋常中学校への進学志向が高まっていた。
 一県一校の設置制限は、二十四年十二月の中学校令の改正によって緩和され、複数校の設置が可能になった。福井県では、まず十九年に廃校となった小浜中学校の設置を求める動きが、旧小浜藩士を中心に起こり、二十六年に県会で分校設置が議決され、二十七年に小浜分校が設置された(告示第二四号)。
 二十九年十一月からの県会では、尋常中学校増設に関する県の諮問が可決され、同時に、校地の寄付を前提にした大野町・三国町への中学校の設置、敦賀町への商業学校の設置の三つの建議も可決され、県内各地で中等学校設置の要求が高まってきたことがわかる。翌三十年の県会では、南条郡・丹生郡会の建議をふまえて提案された武生町への尋常中学校設置の建議が可決され、三十一年には武生尋常中学校が設置された(告示第四四号)。すでに三十年には、小浜分校は小浜尋常中学校となっており(告示第四〇号)、さらに三十四年には、福井中学校大野分校が設置され(告示第五二号)、三十八年に独立して大野中学校となった(告示第二五号)。やや遅れて、四十三年に私立の第二仏教中学を改組した北陸中学校が開設され、県下の中学校は五校となった。こうした中学校の増設によって、経常部・臨時部を合わせた県の教育費の支出は、中学校が一校であった二十年代半ばの二万円台から、四十年には一九万円に増加した。県歳出に占める割合では、二十九、三十年の水害による土木費の突出によって相対的な変動があるものの、二十年代の一割弱から三十年代をとおして二割弱を占めていた。
 表88でみるように、中学校の増設とともに入学志願者もふえ、入学者に対する割合は明治後期をとおして一・五〜一・八倍であった。これは、三十年代半ば以降では、前年度の高等小学校卒業生(男子)の二〜三割にあたる人数が中学校へ進学していたことになる。だが、健康や経済的理由、学力不振などによる退学者も多く、入学者に対する五年後の卒業者は、三〜六割であった。

表88 中学校の入学者・卒業者(明治28〜大正1年)

表88 中学校の入学者・卒業者(明治28〜大正1年)
 卒業後の進路については、専門学校などの高等学校以外の上級学校への進学者が増加するとともに、三十年代半ば以降、就職者が増加し、不詳者を含めると半数が進学以外の道を進むようになった(図25)。四十一年には、義務教育年限の延長をひかえて、師範学校本科に、中学校や高等女学校の卒業者を入学資格とする二部がおかれ(県令第九号)、中等学校と師範学校の制度的な連絡がはかられた。
図25 中学校卒業後の進路(明治29〜大正9年)

図25 中学校卒業後の進路(明治29〜大正9年)



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