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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      女子就学の奨励
 福井県の女子の就学状況については、明治二十年代前半には就学率が二割強で低迷し、全国的にみても二十三年度で三六位、二十四年度で四〇位ととくに低かった。このため明治二十七年(一八九四)五月、荒川邦蔵知事は福井県私立教育会に対して「学齢女児ノ就学ヲ奨励スル方法」を諮問した(『福井県私立教育会雑誌』一六)。これに対して私立教育会は各郡支会の議論を経て、二十八年に答申を提出した。そこでは「教育談話会」による父母の啓蒙、就学規則の厳行、裁縫科の加設とともに、「不就学原因中重き部分を占」める子守りや製糸・織物業を手伝う女子に対しては、小児を背負ったまま授業をうけることを許すこと、遅刻・臨時帰宅を許すこと、授業料の減額・免除、学用品の給与・貸与が答申されていた。裁縫科を正教科に加えた尋常小学校は、二十八年度の三七校から徐々に増加し、三十九年度には一三五校となり、四十一年度から三学年以上の女子の必修科目となった。
 女子の就学に関連して、二十年代半ばから輸出向絹織物業が急速に発展していた福井市周辺では、機業場での尋常科卒業以前の児童労働が増加していた。二十八年に荒川知事は、私立教育会に対し、織物業が盛んになるにしたがって、一二歳前後の子弟が多数従事しているとして、「半ハ職工トナリ半ハ生徒トナリテ機業ノ発達ヲモ妨ケス、教育ノ普及ニモ害ナ」き方法を諮問した(『福井県私立教育会雑誌』一九)。これは、織物業の振興を優先しながら、実態として生じている義務教育を修了していない職工の教育を問題にしたものであったが、織物業の展開がみられなかった嶺南各郡では問題自体が共有されず、就学規則の厳守と夜学校の設置が提案されたにとどまっていた。
 三十四年の農商務省の調査では、絹織物業に従事する福井県の一四歳未満(学齢児童)の女子職工は、四八四〇人で職工全体の三割を占めていた(農商務省『生糸織物職工事情』)。これは、同年の女子の就学始期既達者(就学率の母数)の一一パーセントにあたり、絹織物業での児童労働が、女子の不就学の少なからぬ要因となっていたと考えられる。



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