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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      就学率の上昇
 明治二十年代に入って四割強で停滞していた福井県の就学率(就学者数/学齢児童数)は、二十年代半ば以降、着実に増加しはじめた。こうした傾向は全国的な動向とほぼ同様であり、三十年代に入って急速に上昇し、三十年代半ばには九割をこえ、明治四十一年(一九〇八)には九八パーセントに達した(第一章第五節三図9)。
 ただ、就学率をみる場合、制度的な変更によって、あるいは就学督励策のなかでより急激な上昇となって表われることに留意しなければならない。すなわち、二十八年から就学率の計算方法がかわり、母数となる数値が、学齢児童数(六歳から一三歳までの児童数)から就学始期に達していない六歳の児童数を除いた値になったため、福井県では同年度で約八〇〇〇人が母数から除外された。また、三十三年の小学校令施行規則で、転居や居所不明者が学齢児童数から抹消されたことによって、それまで学齢児童に含まれていた県外転出にともなう届出もれが削除された。
 また、三十年代半ばからの就学率の急激な上昇には、「年長生」と呼ばれる学齢期後半の退学児童の再就学が、少なからず含まれていたことが推測される。福井県では、三十三年から三十七年まで各年の市町村別の就学率が県報に掲載され、市町村の就学督促に拍車をかけた。三十四年三月、今立郡では貧困児童の就学奨励のために、戸数割等級十分の五以下の児童に対して教科書や学用品の貸与・給与を定め、遠敷郡でも学用品の貸与・給与のための町村への基金の配布を定めた(福井県議会図書室文書、旧宮川村役場文書)。
 さらに十月には、「年長生特別教育法」が指示されたことが大野・今立・南条郡でわかる。これは、一一歳以上ではじめて就学した児童、あるいは中途退学の後再就学した児童に対し、学級編制や教授法上の配慮を示したものであった。「成ルヘク通常児童ト区別シテ学級編制スヘシ」と独立の学級編制が指示されたことから、実態として相当数の「年長生」が存在したことが推測される。今立郡国高村では、三十四年から三十五年にかけて女子の不就学者が、六六人から八人に急減し、女子就学率が七七パーセントから九七パーセントに上昇した。『国高村是』は、その理由として「年長生特別教育実施」をあげていた(旧平泉寺村役場文書、福井県議会図書室文書、南条郡北杣山村役場「学事ニ関スル必要書類」)。
 敦賀郡でも、三十六年度末の郡内町村長会提出の注意事項として、「近来各郡市競ふて就学を奨励し、且年長生特別教育を行ひたる結果」就学率が上昇したとして一層の勧奨と高等科への女子就学の奨励を求めていた。こうしたことからも、三十年代半ばには、女子を中心とする退学者の再就学が、県下で広く進められ、このことが女子の就学率の急激な増加となって表れたと考えられる(旧東浦村役場文書)。
 だが、このような「年長生」が卒業・退学したのちも、三十年代後半に達成された高就学率は、維持され、低下することはなかった。また、就学状況をみるうえで、より実際的な指標である出席率(日々出席児童平均数/小学校児童数)も、福井県では男子で三十六年度、女子で大正三年度(一九一四)に九割をこえた。
図24 小学校課程別児童数(明治19〜昭和17年)

図24 小学校課程別児童数(明治19〜昭和17年)

 この時期の就学状況は、統計的なデータから、つぎの二つのことがわかる(図24)。第一は二十年代半ばから三十五年にかけての就学率の上昇が、おもに女子の尋常科児童数の急増によってもたらされたということである。第二は、高等科児童数が、男子においてより著しく増加し、二十五年度(二八〇六人)から三十五年度(八三五九人)にかけて三倍に増加していた。この傾向は、戦前期を通して一貫してみられたが、とくに二十年ころから義務教育年限が延長される四十年にいたるまでは、より急激な上昇がみられた。



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