目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      運動会・体育・学校衛生
 学校行事のなかで、もっとも広く地域住民をまきこんで行われた小学校の運動会も、この明治二十年(一八八七)以降に各地で行われはじめた。初期の運動会は、「遠行運動」とも呼ばれ、野山にでかけてさまざまな競技を行うものであった。学校儀式をとおして国家意識の形成をめざした文部大臣森有礼は、身体活動を重視し、この時期に中学校・師範学校で兵式体操を推進したが、初期の運動会もこれらの中等学校をてはじめに、軍隊の行軍や演習をモデルとして開始され、その娯楽性から小学校にも急速に広まり、多くの参観者を集めた。
 福井県では、十八年十月に中学校と師範学校生徒約四〇〇人が、九頭竜川の河原(舟橋)で、旗奪い、相撲、両校対抗の綱引きを行った。翌十九年三月には、福井小学校の生徒男子三五〇人女子三〇人ほどが足羽山で運動会を開き、旗奪い、綱引きを行っていた(『福井新聞』明18・10・9、19・3・25)。
 敦賀の就将小学校では、二十年から陸軍軍曹を招いて兵式体操の講習会を開き、同年に就将小学校を参観した森有礼の訓示もあって、男子高等科の体操に兵式体操を加えた。この年から、唱歌を歌いながら隊列を組んで気比の松原まで行進し、地理・歴史の学習や理科の標本採集を行う「遠行運動」も実施された(敦賀西小学校文書)。
写真92 県立福井高等女学校の運動会
写真92 県立福井高等女学校の運動会

 この年には、おもに町部の高等科をもつ小学校の運動会が報じられ、二十一年以降には、地域内の小学校の連合運動会が、福井・敦賀・勝山・坂井郡川西地区などで催されはじめ、運動会は、年中行事として定着していった(『福井新聞』明21・5・29、9・26、10・31、22・4・26、6・1)。
 さらに、二十七年七月の日清戦争の勃発は、将来の兵士としての小学校生徒の身体への関心を高め、九月の訓令第五九号(文部省訓令第六号とほぼ同文)では、体育・衛生に関する注意事項が示された。ここでは、態勢や列を整えることに時間を費やすのではなく、「生徒自個ニ於テ意気快活ヲ覚ユル効果」のある授業を実施すること、活発な運動のために筒袖を着用(翌年に男子のみに改正)することなどが求められたと同時に、過度の筆記や暗唱の制限、試験成績による席次換えの廃止など、過剰な試験・競争の一定の抑制が指示された。
 三十年には日常の清掃、長期休暇時・水害後の清掃方法を詳細に定めた訓令第四号「学校清潔方法」(文部省訓令第一号と同文)が出された。さらに、学校医の設置(三一年勅令第二号)や年二回の「身体検査」の実施(三三年文部省令第四号)が定められ、学校衛生に関する法制が整えられた。
 こうした児童の身体や学校衛生への配慮は、学校施設の整備を必要とし、福井県では三十一年十二月に、「市町村立小学校設備完成規則」(県令第六一号)によって、教室・運動場などの設備の完成が、一年から三年の期限つきで市町村に義務づけられた。翌年には、二十四年の「小学校設備準則」がより詳細な内容に改正され、福井県でも、運動場を含む校地の条件や校舎の構造、校具の種類などの規準が示された(訓令第五九号)。これによって、教室の広さ(多級学級で幅三〜四間、長さ四〜五間)、採光窓の大きさ(床面積の六分の一以上)、運動場の広さ(一〇〇人未満の尋常小学校で一〇〇坪以上)などについて、はじめて規準が定められた。また、校地や運動場の選定、校舎建築に関しては知事の認可が必要とされ、実測図と校舎の平面図にもとづいた審査が行われるようになった。
 校地・校舎の面積の増加を統計的にみると、小学校児童数の上昇とともに、三十年代以降、一校あたりの校地・教室の面積もふえ、とくに校地が増加していた(図23)。明治前期では、現在のような広さの運動場をもつ小学校は、ほとんどみられなかった。町部の中心校であった敦賀の就将小学校でも、九年の新築当初から七〇坪ほどの屋内体操場は設置されていたものの、運動場はなく、三十一年に校地を移して、はじめて運動場を確保した。
図23 小学校1枚あたりの学校敷地・教場坪数(明治29〜大正1年)
図23 小学校1枚あたりの学校敷地・教場坪数(明治29〜大正1年)

 このように複数の教室をもった木造校舎に一定の運動場を備えた「学校」の景観は、明治三十年代以降、しだいに整えられてくるといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ