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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      「御真影」・教育勅語と学校儀式
 ほぼ時期を同じくして、学校儀式において特別な意味をもった「御真影」が、明治二十一年(一八八八)四月に福井県立師範学校と尋常中学校に下付された(『官報』第一四六九号)。ここで、下付された「御真影」は、同年一月にイタリア人絵師キョッソーネに描かせた洋装の天皇の肖像画を、写真撮影したものであり、明治天皇が写真を嫌ったため、明治六年以降、十五年ぶりに作成されたものであった(多木浩二『天皇の肖像』)。この肖像写真は、当時、一般に流布していた天皇の肖像を描いた錦絵や石版画とは異なる写実性をもち、政府によって政治的に作成されたという意味で、正統な「御真影」であった。
 この「御真影」は、二十二年十二月以降、他の模範となるような優等な高等小学校に対して、申立てに応じて下付されることになった。福井県では、二十三年三月に福井、平章、三国、有終、成器、惜陰、進脩、就将、小浜、雪浜の一〇校へ「御真影」が下付されたのが最初であった(『福井新聞』明23・3・13)。
写真90 「御真影」の下付

写真90 「御真影」の下付

 このうち、武生町の進脩小学校では、三月十二日に教員が高等科と尋常科四年生の男子を引率し、白川橋まで奉迎し、二十二日には校楼に安置した「御真影」を学区内の父兄一般に公開し、夕刻までに四〇〇〇有余人が参拝し、その際神酒が供されたという(武生東小学校文書)。また敦賀町の就将小学校では、三月十七日に郡役所で郡長から町長が「御真影」を受け取り、校長の先導のもと高等科男子の二隊が前後を護衛しながら喇叭とともに町内を行進し、各戸は国旗を掲げて祝意をあらわしたという。生徒一般と小学校委員、町会議員は校門に整列して迎え、その後町長から校長へ「御真影」が交付され、職員生徒の参拝、君が代など唱歌の斉唱が行われた。「我地方ノ如キ郡役所アリ裁判所アリト雖モ別ニ此恵ヲ得ルコトナシ」と、地域のさまざまな機関のなかで、学校のみが、「御真影」を拝戴した栄誉が記されている(敦賀西小学校文書)。
 この就将小学校の例にみられるように、写真をあたかも天皇のように扱い、行列をつくり、地域をあげて歓迎する「御真影」の拝戴の儀式は、以後「御真影」を下付される学校と地域で盛大に行われることになった。こうした「御真影」に対する取扱いは、その後の保管や各種式典においても、引き継がれていく。
 こうしたなかで、二十三年十月、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布された。この勅語は、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ」をはじめとした徳目が述べられ、「常ニ国憲ヲ重シ、国法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とされたように、帝国憲法体制のもとでの国民道徳・教育の基本理念を示したものであった。
 「勅語」という天皇のことばとして発せられたこの文書は、「御真影」と同様に、学校儀式で、特別な様式をもって扱われることによって、その役割を果たした。教育勅語の謄本は、文部省によってすべての公立学校に迅速に配布され、福井県では翌二十四年の二月から四月までに県立学校と各郡市長に交付され、郡市長を通じて各小学校に配付された(『福井県学事年報』)。これに先立って二十三年十二月、「勅語奉読会心得」(訓令第三三号)が達せられ、三大節とそれ以外の毎月三十日の始業前に学校長が奉読することとされ、定例的な奉読会の実施が定められた。
 二十四年六月には、文部省は「小学校祝日大祭日儀式規程」(文部省令第四号)を定めた。これによって祝祭日の儀式は、「御真影」拝礼、万歳奉祝、勅語奉読、校長訓話、唱歌斉唱から構成され、これらのうち、それぞれの各祝祭日に行うべきものが定められた。市町村長、学事関係吏員は可能なかぎり列席することとされ、父母や住民の参観も奨励された(同規程は、二十六年に改正され、儀式は新年と紀元節・天長節のみに限定)。各府県知事が定めることになっていたこの規程の細則は、福井県では翌二十五年六月に発せられ(県令第四一号)、儀式の次第が万歳奉祝の際の文言や「御真影」拝礼の順序などを含めて一二項目にわたって定められた。加えて同日の「小学校敬礼式」(訓令第一六号)では、儀式の際の最敬礼・敬礼の作法が指示された。また「御真影」、勅語謄本の管理には厳重な注意が求められ、校内の一定の清潔な場所に奉置することとされ(二五年訓令第三号)、二十六年七月からは、これらを「奉護」するため、教員一人の宿直が必要とされた(訓令第二六号)。こうして詳細な学校儀式の様式が定められ、全国的にもほぼ画一的な学校儀式が実施されるようになった。
写真91 東郷尋常高等小学校の学校儀式

写真91 東郷尋常高等小学校の学校儀式

 このような規程によって、「御真影」は学校儀式に不可欠の要素となった。と同時に、この時点で下付された「御真影」こそが正統なものとされることによって、それまで広く流布し、学校儀式のなかで用いられていた市販の「御真影」は、排除されることになった。二十五年十月の郡市長会議では、坂井郡長が小学校の開校式で掲げられた石版画の「御真影」を「売品ヲ以テ生徒ニ拝セシムヘキモノニアラス」として、撤去させたことを報告していた。同時に相当に設備の整った学校には、広く下付することを望み、大野郡長も民家を使用している学校に対しては、たとえ複写した御真影であっても、下付しないよう求めていた(牧野伸顕文書)。ここでは、正統な「御真影」を付与しうる学校と、そのための条件をみたせない学校を序列化し、「御真影」の下付が学校施設充実の方策としてとらえられていたことがわかる。
 二十五年五月には、府県の責任で「御真影」を複写することが許可され、福井県では翌二十六年に県費で複写し、設備のもっとも整っている尋常小学校の六三校に付与した(『福井県学事年報』)。四十二年の今立郡の尋常高等小学校一〇校でみると、二十年代で四校、三十年代で三校、四十年代で三校が、高等科設置や新築・改築の際に、「御真影」を付与されていた(『今立郡誌』)。



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