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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第三節 明治後期の教育・社会
    一 国家主義教育の推進
      地方教育行政の整備
 明治二十三年(一八九〇)十月、十九年の「小学校令」が廃止され、新たに「小学校令」(二十五年四月施行)が公布された。これは、市制、町村制の実施にかかわって、小学校の設置や運営を市町村(または町村学校組合)に義務づけるものであった。と同時に市町村の教育行政は、市町村に委託された国の事務とされ、府県・郡を通じて国の監督をうけることが明らかにされた。この小学校令は、三十三年八月に改正(四年制義務教育の実施、義務教育の授業料非徴収)、さらに四十年三月に改正(六年制義務教育の実施)されるが、その基本的な枠組みは継承され、第二次世界大戦中の「国民学校令」制定までの半世紀にわたって小学校教育の基本法令となった。
 二十三年の小学校令では、郡内の教育事務監督の専任官として、郡視学がおかれ、十八年の教育令で廃止された学務委員が、再置された。郡制の施行が順調にすすんだ福井県では、郡視学の選任も円滑に行われ、二十五年四月から同年末までに大半の郡視学が任命された。当初、郡視学の俸給は郡費負担とされたため、その任免・俸給額などは郡会によって左右された。実際に二十八年一月には南条郡で郡視学の廃止決議がなされ、今立郡においても、石川県から赴任した郡視学に対して地方の実情に詳しくないとして、月給一五円から一二円へ減額が決定されていた(『福井県私立教育会雑誌』一七、『福井』明27・12・5)。
 ただ、二十六年十二月の「市町村立小学校教員任用令」で、町村立小学校教員任用の内申権が郡長にあたえられており、その補助機関としての郡視学が教員人事に対して大きな影響力をもつようになるにしたがって、しだいに制度的に定着していったと考えられる。郡視学の職歴をみると、二十五年では教職経験者は三人のみで、六人が元郡書記・吏員であったが、三十二年では九人が教職経験者となっていた(表87)。さらに三十三年四月には判任官とされ、その俸給は県費負担となり、教職や学務吏員としての経験を必要とした任用資格が設けられた。すでに三十年十月に県に地方視学(御園生金太郎、田川音次郎)がおかれており、文部省視学官、地方視学、郡視学という学事監督の系統が確立することになった。

表87 郡視学

表87 郡視学
 一方、学務委員の選出は、市町村議会が、議員または町村公民中の選挙権をもつ者から選任するとされ、その人数(うち四分の一以上は男子教員)や報酬・任期については、各市町村でそれぞれ定められた。二十八年には全県で七八三人、一市町村平均四人強の学務委員がおかれていた(『福井県学事年報』)。
 学務委員の職務は、具体的には二十五年の「市町村吏員教育事務取扱規則」(県令第一八号)で定められた。そのおもなものは、学齢児童の就学や小学校の管理の補助、小学校の編制・設備の調査、校舎・校地や学齢児童の就学猶予・免除や授業料について意見を述べることであった。
 教育事務に習熟していない市町村職員を補助するため、その職務は広範にわたっていたが、学務委員の多くが、こうした職務を当初から円滑に行うことは難しかったと考えられる。設置当初の二十五年秋の郡市長会では、実際に選出された学務委員には、名望家・財産家と「中等以下」の者とがまじっており、その職務内容も周知できていない状況が報告されていた(牧野伸顕文書)。二十六年の『福井県学事年報』でも、辞任があいついでいること(吉田郡)や有名無実の者が少なくないこと(坂井郡)が報じられていた。このため二十八年に大野郡では、学務委員は毎月三回以上学校または町村役場に会合し、「学事ノ普及」をはかる必要があることが訓示されていた(大野郡訓示第四号)。
 三十三年に改正された小学校令の施行細則では、学務委員の定員(一〇人以下)や任期(四年)が規定され、その職務も調査に関する事項が省かれ、簡略化された。



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