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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    四 立憲政友会福井支部成立後
      第七〜一〇回の総選挙
 福井市では市会の実力者や有力商工業者が市の北部(松本)・中央部(中筋)・南部(橋南)の各地域を地盤にして角逐することになった。第七回、第八回は、市参事会員の経験者であり弁護士の牧野逸馬と、県会議長をつとめ商工業界を代表する鷲田土三郎との政友会同志の対決となり、第九回は両者間での次期交代の約束のもと鷲田が下り、さきに政友会を脱会した牧野が無所属で立ち、これに商工業界や『若越新聞』を背景に市参事会員・県会議員の経験者藤井五郎兵衛が政友会候補として対決した。第一〇回は数名の候補が予測されたが結局牧野に代わって鷲田が、それに本願寺門徒を代表する竜江義信、さらに商工業界を代表する松原栄の政友会同志の争いとなった。新聞の報道によれば、かなりの買収工作が各候補により行われた模様である(『北日本』明41・5・14、15)。
 定員四人の大選挙区の郡部では、各候補者がその出身の旧選挙区を基盤に町村を固め、そのうえで候補者不在の他選挙区の票を取り合った。まず第七回は、大野郡においては郡有志会の協議により伊藤淳、林彦一、比良野直の三人を推せんし、三人の交渉決定は竹尾に一任し、交渉の末抽選により伊藤に決まった。また、今立郡では郡有志の推せんをうけた福島宜三、山村貞輔両名が抽選を行いその結果、福島に決定したことが報じられた(『福井新聞』明35・6・14)。ともかく政友会よりは杉田のほか県会議員であった伊藤、丹尾がおのおの旧第一選挙区、第三選挙区を基盤に出馬し、嶺南では元議員の時岡、小畑の調整がつかず結局同士討となる。そして、福井新聞派の後援と旧第三選挙区を基盤に鯖江町出身の実業家福島が、また大野南部からかつて大野革新協会を指導した富田村(大野市)の大畠久米之助が進歩系無所属で出ることになった。
 なお、当時郡参事会員で、初代の遅羽村長であった斉藤慎治あて伊藤に関する選挙関係の書簡(資11 一―一五一〜一五八)によれば、前述のように立候補の前提としてまず郡内有志一致の輿望が不可欠であり、具体的には郡会議員、町村長の支援が必要とされた。伊藤の場合、大野郡の北部すなわち勝山町を中心に周囲九か村の町村長の推せんをほぼ取り付け、また、郡会議員の半数にあたる一四人の支持を確保したうえでさらに大野郡全域に、ついで足羽・吉田郡へ進出、選挙戦を展開したことがうかがわれた。書簡により、斉藤勝山町長、笠川村岡村長、比良野野向村長、仲村政遅羽村長、郡参事会の斉藤、布川源兵衛らが伊藤のために積極的に動いたことがわかる。なお、第七回総選挙で当選した市部選出議員および実業家議員の一部が、第一七議会を前に三十五年十一月、壬寅会を組織し、議会解散後解散したが、福島はこれに参加した。
 第八回は嶺南で時岡一人にほぼ絞られたほかは、前回と同じ顔ぶれで選挙が戦われた。そして無所属の福島が惜敗し、定員四人を政友会が独占した。
 第九回は前述のように政友会分裂の余波をうけ、政友会としては杉田と嶺南の荻野芳蔵が出馬し、前議員の丹尾、時岡および福島は無所属で戦うことになる。『福井県政界今昔談』の各候補の各郡別得票数(表86)によれば、候補者は出身の旧選挙区でその・・・得票の大半を獲得し、他方候補者不在の郡は各候補の草刈場となっていた。

表86 第9画総選挙における各候補者の郡別得票数

表86 第9画総選挙における各候補者の郡別得票数
 すなわち各郡の有効投票数に対する各候補の得票率を示すと、杉田は坂井郡で八八パーセント、吉田郡で五九パーセント、福島は今立郡で六七パーセント、南条郡で五九パーセント、丹尾は丹生郡で六三パーセント、時岡は遠敷郡で七一パーセント、大飯郡で七七パーセントであった。また各候補の得票中出身旧選挙区での得票率は、杉田が九四パーセント、福島五五パーセント、丹尾五三パーセント、時岡七三パーセントを占めており、また旧選挙区の有効投票数中第二選挙区で、杉田が九四パーセント、第三選挙区では丹尾と福島の両名で九二パーセント、第四選挙区で時岡・荻野両名が八九パーセントを得ている。そして候補者不在の第一選挙区では杉田以外の四人がほぼその票を分け合っている。なお、敦賀郡における福島の得票数は彼の実業界における立場が投影しており、荻野の足羽・大野郡での得票は政友会候補の彼に杉田票がまわされたとも考えられ、丹尾の足羽郡での高い得票は丹南三郡での福島との対抗の危機感による挺子入れの結果とも推測できる。また三方郡における時岡、荻野の得票数がほぼ折半である点が注目されよう。
 選挙後、無所属で当選した牧野、時岡と丹尾の三人は元政友会所属議員の一部により組織された自由党に加盟した。この自由党は三十八年十二月に帝国党、甲辰倶楽部と無所属の一部と合同し大同倶楽部を組織する。また、旧中正倶楽部、旧交友倶楽部の議員は日露開戦中の三十七年三月に甲辰倶楽部を組織し、福島はこれに加盟した。そして、四十年の第二三議会終了後、大同倶楽部は幹部派非幹部派の内訌により多くの脱会者を生じ、丹尾、牧野は政友会に復帰した。
 第一〇回は数名の立候補が予想されたが、まず杉田が坂井郡有権者大会で候補に選定され、大野・足羽・吉田三郡の有権者有志はまず若越倶楽部の松井文太郎を推せんしたが彼は辞退し、笠川継孝が推せんを獲得、丹尾も丹南三郡および足羽・吉田二郡の有志推せんをうけ、荻野は敦賀・遠敷両郡で全郡一致の、小浜町益友会・有終会の推せんを得、また小畑は弟の河崎清と橋本直規ら反若越倶楽部の後押しのもと杉田と福井県有志の推せんを得、おのおの政友会公認で出馬し、さらに南条郡より丹南三郡のかくらん要因として坂口秀雄が出ることになった。
 当時反杉田の立場にあり、その報道に若干の偏りがある点に注意しなければならないものの五月十四、十五日の『北日本』によれば、杉田の旧第二選挙区の優勢は動かず、丹尾は旧第三選挙区で福島辞退の効果を生かし優勢、また足羽郡の地盤を確保、笠川はほぼ大野を独占、足羽・吉田郡へ歩を伸ばし、荻野は旧第四選挙区で小畑を大きく上回り優勢、小畑は杉田の地盤坂井郡の一部の譲与をうけ、嶺南で荻野の半数程を確保、また嶺南の両者は足羽・吉田郡、丹南三郡で若干の票を集め得ると、坂口は最後まで動静やや不明で十分運動を展開せず、もしその金力を背景に積極的に動けば、かなり各郡の票の動きに変動を生ずるといった状勢であった。



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