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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    四 立憲政友会福井支部成立後
      『北日本』新聞の刊行と若越倶楽部
 こうして政友会分裂騒動は結末を告げたが、県内における竹尾派非竹尾派の対立抗争は益々激しさを加え、劣勢の竹尾派は明治三十七年(一九〇四)三月に予定された第九回総選挙をにらみ、勢力挽回と政界の再編を期して竹尾、吉田、大橋、今村らにより三十七年一月十日に機関紙『北日本』新聞を刊行したのである。彼らはその「発刊之辞」に、北日本は北半面に於ける帝国民論の代議者なり、熱誠なる憲政の擁護者なり、其の敵とする所単憲政の敵のみ、閥族のみ、眼中政党なく政派なし、究竟の目的とする所単政弊の結晶体なる藩閥政治の打破に在るのみ、党派の確執、朋党の反目、区々の利害に拘泥して一隅に割拠する如きは固より好まざるの甚しきもの也と書いた。それはまさにこれまでの彼らの行動についての弁明であった。なお、第九回総選挙直後、県選出の杉田を除く四代議士と石川県の再興自由党の四代議士らによって北陸倶楽部が組織され、ついで北信八州の団体に進展せしめ政界刷新のための新党結成の動きが報じられた。『福井新聞』(明34・4・10)は「多分に吏党的なものなり」と評したが北陸の政界に一つの波紋を生じつつあった。『北日本』第一号に掲載された祝詞祝電の人名を見れば同紙がある程度かかる動静に対応しようとしたものであったことも推測できるのである。
 さて、三十年代後半は日露戦争ならびに戦後経営というきびしい政局が展開されたが、そのような非常時ともいえる期間に政友会支部分裂後の県政界は、支部派(杉田派)、非支部派(竹尾派)と進歩派(福井新聞派)による三つ巴の執拗な利権と役職争奪がくり返された。四十年六月に刊行された須永金三郎・山崎有朋著『福井県政界今昔談』は県政界暗闘劇と名づけて当時の政争を詳述した。須永は栃木県足利出身で、創刊から三十六年初頭まで第四次『福井新聞』の、後土生と入れ替わり『若越新聞』の主筆であり、さらに『北日本』発刊後それに移り、三十年代後半の県政界の表裏を遍歴した新聞人で、『福井県政界今昔談』は須永が『北日本』に反福井新聞の立場で掲載した「福井県治政界暗闘史」に加筆したものである。同書は県政界暗闘劇の起点は大野郡、坂井郡、福井・足羽・吉田の一市二郡、丹南三郡、嶺南四郡の五地域グループがそれぞれの県会議員定数の持ち駒を基礎に合従連衡し、多数派工作を画策したことにあるとしている。
 ともあれ、三十六年の県会議員選挙で多数を制した非竹尾派(坂井郡派と森、中山を中心とする福井新聞派の連携)は幾代旅館に集まり幾代組を組織し、役員の配分に関する取決めを行い、議長、副議長、参事会員を独占した。しかし、通常議会後約束の議長交代問題(中山から坂井郡派へ)がもつれ、中山が議員を辞職し、また一部議員の交代の結果竹尾派が多数となり、三十七年の通常県会は後任議長問題をめぐって議事が停滞し、結局議長不在の変則県会となる。このため県当局の打開策に乗じた大橋らの画策が成功し、三十八年の通常県会を前に中立派が作られ、いわゆる三分策が成立し、さらに森の貴族院入りによる福井新聞派の逼塞の結果、大橋議長が誕生し、『北日本』の大橋、吉田を中心に若越倶楽部が組織され役員獲得のための竹尾派の結束が固められた。
 こうして三十九年の通常県会は若越倶楽部が多数を占める。このような県会内の両派の抗争は政友会の党勢に大きく影響し、本部の苦慮するところであった。そこで四十年四月に両派の調停および竹尾らの復党のため、栗原亮一の来県となり種々工作が行われたが、支部の役員配分をめぐって妥協は整わなかった。四十年九月の県会議員選挙の結果は若越倶楽部九人、政友会支部一〇人、ほかは所属未定であった。しかし未定者は大橋らの勧誘により若越倶楽部に所属し、同倶楽部が多数を占め、議長・副議長・参事会員を独占したのである。そしてこのような役員争奪の泥仕合の結末が四十一年早々に発覚した議員涜職事件であった(資11 一―三二)。その結果、四十一年三月に二〇人の県会議員が失格し、八月に補欠選挙が行われ、県政界は新しい状勢を迎えることになった。さらにまた同年五月に任期満了の第一〇回総選挙が行われ、その結果は全員政友会となったのである。



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