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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    四 立憲政友会福井支部成立後
      立憲政友会福井支部の分裂
 これよりさき、政局は明治三十五年(一九〇二)一月に日英同盟が調印され、日本の対露政策は漸次急を告げつつあった。第一次桂内閣は、第一七議会に海軍拡張のため増租継続案を提出したが、衆議院が否決したので、議会を解散した。この総選挙後の五月召集の第一八議会では再び政府と議会との対決が予想されていた。このため桂と伊藤の間に、増租継続案を中止し海軍拡張費は公債によるとし、かつまた行財政緊縮を継続するという妥協案が成立し、内閣はひとまず議会の攻勢を避けることとなった。
 しかしこの伊藤の政府との妥協は政友会内部に大きな衝撃をあたえた。政府と断乎対決することを期し、またかねて伊藤の専制的な党運営に不満をもっていた片岡健吉、林有造ならびに尾崎行雄らの党幹部は脱会し、さらに多くの除名者を出し、各府県においても陸続と脱会者をみるにいたった。福井県内にも脱会者を生じた模様であり、現存の杉田あて三十六年五月二十七日付長谷川豊吉の書簡は家内事情を理由に政界隠退の意にかこつけて自らの脱会のことを報じている。結局、七月に伊藤は総裁を辞任し、新総裁西園寺公望を中心に、党の再建が試みられるが、一方では、本部における脱会・除名議員の一部により八月には旧自由党系の同志を糾合し、自由党の再興が企図された。こうしたなか、全国の各支部も動揺を免れず、多くの有力な地方支部の解散があいつぎ、その他の支部の動向も九月の県会議員選挙後さらに憂慮される状況であった。
 福井県支部においてもその影響から逃れえず、また従来からの確執も激化の方向をたどっており、竹尾支部長のもと、支部の解散を含め新事態への摸索が試みられていた(資11 一―一四六)。九月二十二日の県会議員選挙では、政友会二三人、進歩派三人、無所属四人となり、また竹尾派一二人、非竹尾派一七人となったのである(表84)。
 十月二十四日、支部総会が開かれ、竹尾派による支部解散が決議された。しかし、非竹尾派は支部(橋本直規方)を存続させることとし、支部は分裂することになった。当時杉田は第一八議会において衆議院副議長に選ばれ、また政友会の協議員として党務の中枢にあり、直接県政を指揮する立場ではなかったが、以上の福井支部の動向は早速本部に報告された。『政友』(三九号 明36・11・15)によれば、十月二十六日の協議員定集日に伊藤大八幹事より石川・福井両支部解散決議届出の件が報告され、十月二十八日には、福井県支部にては支部幹事等自ら進んで支部の解散を企て、遂に不法の決議を為したるに依り、本部は之が取消を命じたる末、同支部会員は更に総会を開き役員の改選を行ひ規約の改正を為し其承認を求め来りたるに依り、本部は之を承認せり、とあり、さらに十一月二日の協議員定集日には、「先づ伊藤幹事より脱会者の姓名及福井、石川両支部解散の事情に就て報告し、尚ほ杉田定一氏より福井支部の事情に就て報告」とある。その結果、十月中に支部幹事の大橋、吉田円助、三沢敬太、竹尾の四人が除名され、牧野逸馬、丹尾、時岡の三代議士および今村、伯治門(斉藤治郎左衛門)、笠川継孝、林小次郎らは脱会した。



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