立憲政友会福井支部成立後、県政界は政友会一色に塗りつぶされ、県会は支部の県会といわれるごときものとなった。他方、また支部内での指導権をめぐる内部相剋はしだいにその震度を高めつつあった。
さて、明治三十四年(一九〇一)の通常県会を前に権衡工事に対する積極方針をとる竹尾派と消極方針をとる非竹尾派の対立が喧伝されており、消極派は県治倶楽部を組織する。こうした状勢のなか十月下旬に松田正久政友会総務委員ら北陸遊説の一行が来県し、それを機会に支部秋季総会が開かれ、県予算に対する方針が協議されることになっていた。県費緊縮の消極方針を標榜する県治倶楽部は、支部総会を前にして積極派に反抗することを決めていた(『福井新聞』明34・10・27)。支部総会はまず評議員会で幹事一人の補欠として山口定省を指名し、県の予算問題について協議した。その後、総会を開き座長竹尾のもと、支部代議員の選定を支部長に一任し、評議員会の県予算に対する方針を是認して幕を閉じた。おそらく県予算に対する積極的方針が決定されたものと考えられる。しかし緊縮政策は当時の県民の強い要望であり、またこのような動向を反映して県経済倶楽部が結成され県政へ圧力を加えてもいた。
このようななか十一月八日、通常県会が招集され、宗像政知事は前述のような動向を背景に、昨年の臨時県会で議決された一〇か年継続土木費は莫大な県費を必要とし、県民の負荷に堪えるところではないとして権衡工事廃止諮問案を提出した(資11 一―一六)。県内の世論はここに沸騰し、県会においても諮問案に対し十一月二十六日、賛否同数となり、議長の二重権行使といった積極派の画策によりいったんは諮問案否決となった。このため知事は十二月五日に再度廃止案を提出し、これに対し積極派は欠席、県会は全員賛成で廃止案を議決、年来の紛糾問題に決着がついたのである。
しかしこのことによって政友会支部内に確執を生じ、以後竹尾派、非竹尾派の二勢力による執拗な権力闘争が展開されるが、対立の根底には地域的な利害にもとづく勢力の分布が看取され、今回は大枠において坂井郡・丹南三郡と大野郡を中心としたその他の郡市との対抗であった(表84)。 |