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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     三 『若越新聞』と第四次『福井新聞』
      明治三十二年九月の県会議員選挙
 明治三十二年(一八九九)九月七日に県非増租同盟会の発会式が、福井市の五岳楼で三浦梧楼、鳩山和夫、波多野伝三郎、肥塚龍を招致して挙行された。『若越新聞』(明32・9・11)によれば約二〇〇人の発起人中来会したのは三田村、永田、高島、青山らの小作人や出入関係者のみで一四〇余人にすぎなかった。三田村が開会を宣し、永田が議長となり、会則を議了、幹事七人を選出し、「第十四議会に於て行政を整理し経費を節約し、以て別に新税を徴課せずして、少くとも地租、醤油、郵便の三税を復旧せしめ、併せて鉄道賃銀の低落を期する事」が決議された。それは盛会といえるものでなく、また翌八日の照手座での演説会も暴風雨のため中止となり、さらに十一日、憲政党特派員一行の遊説に対抗して武生入りをした鳩山、波多野による演説会も開催されず、同盟会の発足は三田村甚三郎の意気込みにもかかわらず不成功に終わった。
 一方彼らの動きに対抗し、その発会式を妨害せんとの意図で九月七日に自憲党本部特派員一行(西原清東、桜井駿、杉田定一)の政談演説会が照手座で開かれた。『若越新聞』によれば会衆は「無慮二千四、五百人」とあり、その盛会が誇示された。そして、非増租派と進憲党に対する批判攻撃を内容とする西原の演説「三税復旧の真相」の筆記や、また桜井の論説「進憲党檄文の妄を弁す」が同紙に連載された。ついで一行は十一日に武生に入り同夜懇親会、翌十二日に曙座で政談大演説会を開催した(明32・9・8、11〜15)。
 『若越新聞』(明32・9・14)は土生の「両党の勝敗」(笙東手録)を掲載、「進歩党は風声鶴唳に驚き兵を曳いて走るの醜態を演し、憲政党は宛ながら無人の境を行くが如く肉薄敵塁を蹂躙して遂に凱歌を奏したり」と述べた。選挙戦は明らかに自憲派に有利に展開していた。『若越新聞』(明32・9・7)は「県下の大勢」と題して「今や憲政党員若くは憲政党と行動を共にすべき密約ある候補者の確かに当選すべきもの二十三名乃至二十六名の多きを算するを以て、吾が福井県の権勢は既に憲政党の掌中に帰したるものと断言すべきなり。」と書き、また進歩派の候補者として足羽郡の青山荘、坂井郡の野村勘左衛門、南条郡の三田村甚十郎、中山義樹、遠敷郡の山口嘉七、藤田孫平をあげている。自憲派の報道ではあるが、各郡市における進憲派の候補者難は否定できず、丹南三郡すら南条郡以外は明白な進憲派の候補を出すことができなかった。
 しかし、県会議員選挙が増租問題をめぐる自憲・進憲両党の政策による対決といった争点をもちながら、実際は各郡市の代表として地域的利害が優先し、地域割による集票行動が行われた。その事例として大野郡の実態をあげることができ、『若越新聞』(明32・9・7)によれば、九月一日に同郡の各町村長、前郡会・県会議員など有志五〇余人が会合し、郡内の大同団結のためつぎのような盟約書を締結した。候補者を予定せざるは法律の精神の然らしむる所なりと雖も、而かも当選後に於ける行動は闔郡一致の方針に依り敢て変更することなかるべきは、吾々同志の統一を保つに於て最も緊要の事なりとす、故に吾党の候補者たるものは当選後必らず左の条件を確守すべし。一、本郡選出の県会議員は徒に自己の意見を主張せず、闔郡一致の方針に依りて行動すべし。一、県会に於ける役員選挙に就き意見を異にするもの有るときは在福中の本郡有志者に謀り決定すべし。一、県会に於ける重要問題に関し異議を生じたるときは前項に準し協議決定すべし。さらに候補区域を協議し、勝山町より一人、小山・乾側・上味見・下味見・羽生・芦見村より一人、大野町と下庄・上庄・富田・坂谷村より二人を選出することを決定した。なお、四人の定員中一人の指導者として竹尾が伊藤淳を選出することを議決した。
 このようにして各郡市とも激しい選挙戦が展開されたが、結果は表83にみるように自憲派の大勝利に終わった。当選者の内訳を『若越新聞』(明32・9・27)の「県会議員の党籍に就て」の記事は自憲派二三人、中立派五人、進憲派二人とし、福井新聞社が自由派一三人、非増租派一七人とするのを無責任な報道であると批難しているが、明らかに『若越新聞』の方が正しく福井新聞社の報道は虚勢を示すものであった。
 九月の県会議員選挙後、十一月には通常県会が予定されていた。進憲派は予想外に後退したが、丹南三郡での進憲派の策動による自憲派の動揺もまた大きく、自憲派の再建のための結束が要請されていた。また、福井支部、さらに県会内での彼らの立場の強化をも企図せねばならなかった。かくて十一月『若越新聞』(明32・11・5、7〜9、11、12、14)に三郡同盟倶楽部の「本月十二日午后一時武生町安久楼に於て発会式を挙行す」という特別広告を掲載、発会式では規約、決議案を可決、役員を選出し、幹事長長谷川豊吉、幹事山村貞輔、斉藤治郎左衛門、山本喜右衛門、丹尾頼馬、木下正雄、田中右市郎、増沢善右衛門、今村七平、ほかに四〇人の常議員が決定した。

表83 県会議員選挙結果(明治32年9月)

表83 県会議員選挙結果(明治32年9月)
 他方、非増租同盟会もこれに対抗して同日魚八楼で総会を開催したが、その劣勢は否定できなかった。このような動きは通常県会開会後、他郡にも波及し十二月三日、吉田郡の自憲党員を中心に全郡一致の行動を目的として吉田郡同志会が組織され、林小次郎、大橋松二郎らの発起により発会式が行われた。県会多数派である自憲党内部に各郡市の勢力再構築の摸索が始められたのである。ともあれ三十二年暮れから三十三年にかけての県政界は自憲党全盛時代といわれるものであった。



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