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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     三 『若越新聞』と第四次『福井新聞』
      第四次『福井新聞』の創刊
 このような自憲党福井支部の動きに対し、三田村甚三郎を中心とした丹南三郡の進憲派もしだいにその活動を明確にする。すなわち県下に燻っている増租反対の世論を背景に、年限付増租撤廃を方針とした進憲党の党勢を拡大し、来るべき県会議員選挙においてその地盤を一挙に確立しようとした。このため三田村はかねて新聞事業に強い関心をもっていた親戚の三田村竹四郎とはかり、内田謙太郎、高島茂平、森広輔(広三郎)、野村勘左衛門、高島多作(七郎右衛門)、高島仲右衛門、野尻太三郎らの出資その他の協力により、『若越新聞』に対抗するものとして選挙直前の明治三十二年(一八九九)八月二十八日に第四次『福井新聞』を創刊した。
写真89 三田村竹四郎

写真89 三田村竹四郎

 創刊時の「福井新聞社職務権限」によれば、主筆に須永金三郎、監督三田村甚三郎、社主三田村竹四郎、主幹小沢源吉、社友取締内田謙太郎、高島茂平、森広輔、野村勘左衛門とある(森広三郎家文書)。第一号の社説「福井新聞の本領」では、「福井新聞は福井県に於ける非増租同盟会の機関新聞なり、若越二州に於ける憲政本党同主義者間のクライヤーなり、其の主張に在ては……全然憲政本党の主義を翼賛す」と述べた。さらに憲政本党結成に際しての宣言と綱領を再録するとともに、「府県会議員選挙に関する憲政本党の檄文」を掲載し、今回の選挙結果は増租派非増租派勝敗の分かれるところで第一四議会の大勢を支配すると強調し、増租派たる自憲党の非行を列挙している。さらに、三田村甚三郎は「快なる哉福井新聞の発刊」のなかで南越の政界を二派に区分し、老人党は自由派、青年党は進歩派を意味するとし、「福井県青年党の羽翼は既に備れり、老人党を斃すの時機は正しく来れり」と書いた。そして第一号附録として福井県非増租同盟会の檄文(資11 一―一三)を掲げ、発起人二〇〇人(その内訳はほとんど丹南三郡)の名を連ね、地租・醤油・郵便の三税復旧のための同盟会発会式の挙行を予告し、県下有志に呼びかけたのである。



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