目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     二 県会の趨勢と総選挙
      県会の趨勢
 明治二十四年(一八九一)四月に郡制が、八月に府県制が施行され、郡会議員、県会議員の複選制が実施された。県会議員定数は三六人から三〇人に減少され、議員は市では市会・市参事会、郡では郡会・郡参事会が選ぶことになった。郡会議員は、町村会選出議員(四分の三)と大地主議員(四分の一)で構成され、また市町村長、郡会議員、県会議員の兼職は許されていた。この複選制が三十二年の府県制改正まで行われることになり、この時期の地方政治を特徴づけることとなるが、選出された県会議員のほとんどが市町村長、市会・郡会議員、市・郡参事会員の経歴者であり、また兼職者であった。
 この改正により、議員活動は、よりいっそうその選出母体である各市町村・各郡の地域利益を背景にしたものになることが予想され、とくに地域における道路橋梁の新設改修や治水などの土木事業の争奪が彼らのもっとも重要な課題となった。彼らは地域利益を要求する郡市町村運動員の請託勧誘にその行動を左右され、また改選期には再選を期するため選出区域の郡・市民の歓心を買うことに奔走することになる。さらにそうした地域利益を実現するため、県会内の多数派工作と役職獲得が試みられ、各郡市の利益を交換、いわゆる交換議決なるものを行い、多数派による県税争奪を実現せしめた。このことは二十年代の県会において県会土木派なる名称が喧伝されたゆえんである。
 しかし、県会土木派といわれるものも二十六年度県会の竹尾を主導者とした継続土木費問題の場合も、大野郡・坂井郡・嶺南を主とする議員連合で、足羽・吉田郡の議員が少数派として疎外されたものであり、またこの土木派に抗して誕生した二十八年度県会の雀屋倶楽部にしても、足羽・吉田郡および丹南三郡と坂井郡・嶺南の一部による多数派組織であり、すなわち大野郡および一部の中立派を少数派に追い込んだもので、県税争奪を演じた土木派の二の舞の姿をみせたものであった(資10 一―二八五)。さらにまた、雀屋倶楽部の弊害を排除せんと結成された正義倶楽部も、雀屋倶楽部と大同小異のものであった。
 なお、二十八年の半数改選後は、それまでの雀屋倶楽部派対自由派という構図は崩れ、雀屋倶楽部は分裂した。『福井日報』(明28・11・29)は、二十九年度県会を前にした県議派閥を山田派一一人(但し内三人は不明)、自由派九人、独立派九人、無偏無党一人と報じている。以上の数字は、各派とも自派のみでは多数派にはなれず、また他派との連合如何により、どの派でも多数派になれる可能性があったことを示している。ともあれ県会の多数派工作はしばしば行われ、その工作をめぐって各郡市の議員団の離合集散をみ、また各郡内の東、西あるいは南、北といった地域的利害にともない、郡域を越えた合従連衡の様相を呈したのである。
 さらにまた、以上のような県会の趨勢と同時に、この地方政治における複選制の仕組は、いわゆる名望家秩序の創出と、中央政治の基盤としての地方権力構造を形成することになり、国家権力秩序の補完装置として機能することになった。こうした段階的な選出過程の頂点に位置したのが国会議員であり、それは地域における市町村長・郡会市会議員・県会議員といった地方権力構造に依拠して創出されたものであった。



目次へ  前ページへ  次ページへ