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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    一 自由党県支部の成立前後
      自由党県支部の成立後
 明治二十六年(一八九三)十一月に召集された第五議会は劈頭、星議長の取引所法実施をめぐる汚職が問題となり、自由党に対し快からざる改進党は、他の諸派と結び星を弾劾除名するにいたった。また星問題に関し自由党内部にも紛糾を生じ、星除籍の主張がいれられなかった長谷部純孝ほか一八人は脱党し、十二月、同志倶楽部を設立した。この事件は県支部にも大きな動揺をあたえ、嶺南の藤田孫平は脱党して同志倶楽部に加盟し、また支部幹事の永田も丹南三郡の動向を背景に脱党を志向した。星問題を契機に自由党の軟化を糾弾する声が県支部内にうずまくことになる。たとえば小泉教太郎は「自由党本部ヘ訴フル書」を作成し、
  一、板垣伯ハ速カニ総理ノ任ヲ片岡君若クハ河野ニ譲リ、自ラ顧問トナリ党ノ改良ヲ計
    ルベシ
  一、後任総理ニ於テハ同志倶楽部ノ意見ヲ求メ、脱党者ニ復籍スルコトニ尽力セヨ
の二か条の要求をつきつけ、回答次第によっては大いに決する処あらんとした。そしてこの意見書を添えて杉田に対し「福井自由党星問題の為動揺せり、之が勢を作らん為に党略の為に、別紙意見書を提出、運動取掛り度、差支の点無きや」と回答を求めているのである(杉田定一家文書)。なお、永田は県支部の慰留によりいったんは党内にとどまることになった。
 さて、第五議会は自由党を除く改進党と諸派が対外硬の旗のもとに結束、条約励行案を上程し、政府が進めていた条約改正交渉に対決することになった。その結果十二月三十日、衆議院は解散され、翌二十七年三月一日に第三回総選挙が行われた。杉田の治水その他地方問題への対応に対する批判、『若越自由新聞』の反自由党的な姿勢の強化など、県支部内の内訌は徐々に深まっていた(杉田定一家文書)。
 こうして総選挙を前にして二十七年一月十六日、支部臨時総会が開かれ、
  一、今回の衆議院議員候補者は、各選挙区の党員が決定し、党支部に報告すること。
  一、『若越自由新聞』は、自由党福井県支部の機関紙でないことを発表すること。
  一、幹事永田定右衛門の辞任を承諾し、その補欠選挙は四月の総会で行うこと。
の三項とともに、自由党県支部が推せんする候補者の当選を期するため、全力をあげることを決議したのである。
 ついで五月召集の第六議会でも自由党を除く諸派は再び条約励行論をもって政府にせまり、またも議会は解散され、九月一日に第四回総選挙が行われた。この連続二度の解散に対し対外硬派は、自主外交の樹立、責任内閣制の実現を旗印に戦うことになった。なお、同志倶楽部および第二回総選挙後民党の一勢力として結成された同盟倶楽部は、それぞれいったん同志政社、同盟政社と改称し、さらに五月に合同して立憲革新党を組織した。
 さて、第四回総選挙の過程で幹事竹尾茂、加藤与次兵衛、事務員三田村甚十郎、林彦一、阿部精といった竹尾主導の県支部陣営に対し、大橋、増田らの若越自由新聞派と黒田道珍の公認に不満をもつ永田らにより、また第二区候補者岡部広、第三区候補者久保九兵衛らの思惑が重なり、ここに支部分裂の様相をみせた。すなわち八月十四日、一部の党員によって県支部の臨時総会が強行され、第二区の坪田仁兵衛公認の取消しと役員改選を行い、幹事に加藤、久保、大橋を選出、自らを県支部と称するにいたった。このため竹尾らは本部に処置を要請し、ようやく本部は増田、大橋を、また革新党の候補者として出馬した久保とその参謀永田を除名した。こうして県内に自由党対抗勢力が醸成され、ひとまず軟派自由党対硬派革新党という政治地図が描かれることになった。
 反自由党系の新聞『福井』は八月二十一日の社説「硬派の為に一言す」のなかで、
  所謂自主的外交、責任的内閣の二大政綱を有する硬派は到る処に勃興せり。……殊
  に自由党の分野たる南越の地に硬派として一旗幟を建てんとする大丈夫は、成敗利鈍
  を度外にして、たとひ不幸一人の代議士を出す能はざるも、猶ほ決して沮喪せざるの大
  覚悟なかるべからず。換言すれば南越硬派は、今や先づ其地盤を作るべき時代に立
  てり。
と論じた。
 政局は日清戦争開始のため、しばらく政戦休止の状態に入った。そしてこの時期中央において改進党を主軸にして対外硬六派の合同気運が醸成されつつあった。県下にあっても立憲革新党硬派代議士の一人を出すにいたった県政界に、自由党県支部に対抗する非自由党勢力の統合・結集が要望されることになる。このようにして二十七年九月十七日、南越硬派の旗上げが福井市で開かれ、北陸進歩党の結党式を十月に行うことが決議され、さらに『福井』(明27・10・16)に、十一月一日に福井市において北陸対外硬派有志大会開催の特別広告が出された。南越に新しい政治勢力結集への模索が始められたが、その結実のためにはなおしばらくの日時を要したのである。一方、自由党県支部では十月二十九日の支部秋季大会で、幹事に竹尾、坪田、事務員に橋本直規、竹内淇、熊谷五右衛門、主計に今村七平、大針徳兵衛が選出され、杉田不在の県支部の陣容を整えたのであった。
 二十八年四月の日清講和条約調印後、同年十二月に第九議会が召集された。民党各派は戦後経営および遼東半島還付問題に関して提携し、内閣弾劾上奏案を提出した。しかし、自由党は戦後経営の名のもと、軍拡および産業基盤培養計画を支える地租以外の増税案を支持し政府と提携した。国民協会もまた民党連盟を脱し自由党と歩調を合わせたため、内閣弾劾上奏案は否決された。
 こうしたなか改進党と反政府諸派の合同が二十九年三月に行われ、大隈を総理に推戴し、新しく進歩党を結成した。こうした状勢は県下にも波及する。『福井日報』(明29・4・28)は、進歩党遊説員尾崎行雄が、またやや後れて志賀重昂が藤田孫平の要請によりまず嶺南に、ついで武生と大野を巡遊し、さらに同社の土生彰と談話会をもったことを報じている。なお、『福井』は二十八年十一月十五日に改題して『福井日報』となり、以後あらためて鮮明に硬派の立場を提言、進歩党の党色を打ち出すことになった。
 こうした動きに対して自由党もまた地方遊説に乗り出し、北陸遊説員として徳増源太郎、竜野周一郎が六月に来福し、福井、武生、小浜で演説会がもたれ、第九議会における政府との提携に関する弁明が試みられた。
写真88 『福井日報』への改題

写真88 『福井日報』への改題

 さて、坪田仁兵衛が二十九年七月に死去し、第二区の補欠選挙が行われることになった。そのため八月五日に県支部総会が開かれ、役員選挙の結果、幹事竹尾茂、評議員橋本直規、三田村甚十郎、阿部精、熊谷五右衛門、松原栄が選ばれ、ついで補選の候補者選定のため一二人(坂井郡七人、吉田郡五人)の推せん委員を選出、県治上における同支部の方針を討議し散会した(『福井日報』明29・8・7)。補欠選挙には八月十八日に大針徳兵衛が本部の承認を経て候補者に決定され、九月五日に選出された。
 一方、吏党新聞として出発し、民党(自由党)攻撃を本来の目的とした『福井日報』の発起人たちは、政府と自由党との提携、妥協といった政況のなか、その存在理由を失い、他方また進歩党にくみすることも本意ではなく、編集人の猛烈な反対にもかかわらず八月三十日に廃刊し、かねて機関紙の欠如を苦慮していた自由党県支部の要望にこたえて譲ることになる。こうして新聞『新福井』は第一号が九月一日に刊行されるが、創立員には竹尾茂、山口定省、橋本直規、近藤善助、松原栄が名を連ねていた。(資10 一―三二八〜三三〇)。
 政局はその後伊藤が内閣改造に失敗して退陣し、二十九年九月、第二次松方内閣が生まれる。同内閣は松隈内閣と称されたように、進歩党と提携し大隈を外相に迎えて出発した。進歩党の猟官運動が進められ、福井県知事にも党員波多野伝三郎が赴任してきた。しかし同知事は、三十年八月の自由党勢力の大である臨時県会において、九頭竜川改修への認識不足という表向きの理由で不信任案を可決され、県会を解散した。ついで内閣と進歩党との蜜月期間もほぼ一か年で終わり、波多野知事も十一月に辞任した。
 三十年十二月に召集された第一一議会において、自由・進歩両党は政府不信任案を上程し、内閣は衆議院を解散し自らも総辞職するにいたった。松方内閣の瓦解後三十一年一月、三度伊藤博文が内閣を組織し、三月十五日には第五回総選挙が行われた。そして、伊藤は種々の経緯の結果、自由・進歩両党を敵にまわすことになるなか、五月、第一二議会を召集した。六月一日、衆議院は地租増徴案を否決し、内閣は議会を解散し、その結果八月十日に第六回総選挙が行われる。なお、この間自由・進歩両党の合同の機運が高まり、ついに三十一年六月二十二日、憲政党を結成した。伊藤は元老会議で政府党組織を提議したが諒解を得ることができず、六月二十五日に総辞職し、かわってわが国最初の政党内閣である憲政党(第一次大隈)内閣が六月三十日に誕生し、杉田は北海道庁長官に任命された。



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