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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    一 自由党県支部の成立前後
      自由党県支部の成立
 明治二十五年(一八九二)十一月に召集された第四議会において伊藤内閣は、詔勅渙発によりかろうじて予算案を通過させた。この詔勅による議会と政府との妥協の背景には、自由党の譲歩的姿勢があった。そのためこれまで民党の旗のもとに歩調を一にしてきた自由・改進両党の間に再び反目が生じた。すなわち自由党は、議会召集前の党大会において星亨主導のもと従来の民力休養策から富国強兵策へその立場を転換し、政府の方針に同調しうる素地が作られていた。そしてこの点が以後の自由党に対して「軟派」という呼称が生まれるゆえんでもあった。
 しかし、この議会において懸案の「集会及政社法」の改正案が通過し、二十六年四月に施行されることになった。これは従来の政党支部の設置とその連合連絡の禁止条項を廃するものであり、自由党は党則を改正し、新しく大阪、仙台に出張所を、各府県に一、二か所の支部を設けて党務の処理、党勢の拡大をはかることになった。
 このような状況のなか、南越自由会は四月三日に杉田・加藤・藤田の三代議士の慰労会と春季総会を開催し、自由党県支部設置方法を議するとともに仮規約を議定し、改正「集会及政社法」の施行と同時に福井市に支部を小浜町に出張所を置くことを決定した。ついで三代議士と小田垣らによる巡回遊説を四月二十日から五月初めにかけて行うことに決め、また第二回北信八州会を福井市に開くため準備委員(今村七平、小田垣、大橋)を選出した。しかし南越自由会設立後の県内自由党の内部抗争は氷解しておらず、支部設立における指導権は大野郡の竹尾、林と支部事務員となった小田垣、松原栄らがとったと推測され、若越自由新聞派と永田派は、ある程度疎外されたと考えられる。
 このため県支部にとって操縦の困難となった『若越自由新聞』に代わる新しい機関紙刊行が企図された。このことは若越自由新聞派にとっては容認できないことであり、七月二十四日の発刊に向け着々その準備を進めていた越陽自由新聞社に対して、若越自由新聞派は物理的にその準備を阻止した。すなわち新主筆の小田垣に対する負傷事件を起こし、さらに印刷所を襲撃し発行不能休刊に追い込み、結局新聞は発刊されなかった(資10 一―三二二)。
 二十六年七月二十四日付の増田、大橋連名で自由党総理板垣退助に提出した陳情書に添えられた書簡の写しが、杉田定一家文書に残っている。内容は杉田の不実を訴えるとともに、二十六年度県会における継続土木費問題をめぐる、竹尾らによる多数派工作の一環として行われた、増田・大橋と杉田との離間策が、県支部設立と越陽自由新聞刊行の挙になったものか、その経緯について板垣より杉田の真意をただされたいというものであった(資10 一―二八二)。杉田をめぐる新旧勢力の交代がしだいに明確化してきたのである。
 そして第二回北信八州会が二十六年九月十日に福井市で開催される機会をとらえて、前日の九日に自由党県支部の発会式が挙行された。『若越自由新聞』号外(明26・9・10)によれば、午後六時より五岳楼で挙行され、支部幹事永田の開会の辞、ついで祝電祝文披露、翌日の北信八州会出席を兼ねて来県した本部派出員加藤平四郎、大阪出張所幹事片岡健吉、新潟の西潟為蔵の演説、石川県北陸自由新聞記者渋谷虎太郎の祝辞が続き九時散会、来会者一五〇余人とある。
写真87 自由党県支部の発会の号外

写真87 自由党県支部の発会の号外



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