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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
    一 自由党県支部の成立前後
      南越自由会の結成
 第一議会の操縦に苦しんだ山県内閣は、明治二十四年(一八九一)五月に総辞職し、第一次松方内閣がこれに代わり、第二議会を迎えた。そしてこの議会においても民党は再び予算案に対し大削減を加え、衆議院は解散されることになる。
 翌二十五年二月に実施された第二回総選挙は、政府による激しい選挙干渉がなされ各地で紛擾を生じ、政府の発表によっても死者二五人、負傷者三八〇人を数えるといった選挙であり、また吏党候補者に対する資金援助や新聞雑誌等の刊行による援護が行われた。福井県においても警察や郡役所などによって民党へ圧力が加えられ、選挙期間中治安妨害のかどで、自由党の機関紙『若越自由新聞』が発行停止の処分をうけた。さらにほぼ時を同じくして、政府の資金援護のもと旧『福井新報』の編集陣を擁し、交同社によって『若越自由新聞』に対抗する新聞『福井』が創刊され、その第一号が二十五年二月一日に刊行されたのであった。
 さて、第一回総選挙後、南越倶楽部はその存亡が憂慮される状態であり、一方、丹南三郡においては永田定右衛門をめぐって新しい状況が生まれつつあった。一つは彼が顧問の立場にあった丹生倶楽部の活動が積極化したこと、二つには総選挙直後に伊藤百佑(今立郡北日野村)、湯浅徳太郎(同郡鯖江町)、上坂武三右衛門(丹生郡豊村)、小泉教太郎(同郡白山村)などにより鯖江に同志会が組織されたことである。これらは丹生郡、今立郡(主として鯖江町)における彼の政治活動の基盤となったものであり、第二回の総選挙には運動の中核として動いた。
 さらに注目すべきは山田欽二、野尻太三郎など東京専門学校を卒業した青年たちにより県会に新風を注ぎ、県内の一政治勢力たらんことを期して二十五年一月に公明会が結成されたことである。丹南三郡での政治勢力の再編を企図する永田陣営が、彼らに食指を動かしたのは当然であり、また彼らも第二回総選挙において永田への選挙協力を通じてその運動を開始した。しかし、選挙結果は政府の有形無形の援護のもと、交同社と関係のあった岡研磨が吏党系無所属で立ち、永田は岡に破れた。このため落選した永田は従来にもまして南越倶楽部に対する不満を強めるとともに、以後の倶楽部における指導権を確保する目的で公明会との合同策を試みるにいたった。
 このことに関して後日、山田欽二が同会の立場を論じた「公明会に就て」のなかで「吾人は断然中央政党に何等の干繋を有するを望まず、然るに其真相を知らざる近眼者流は漫に改進党の準備団体に非さるかと疑ひ、又南越自由会に対して反対の運動を試むるに非ざるかと迷ふ」と述べ、また自由主義を奉ずる南越自由会と公明会とは国家問題、地方問題に相提携し運動をなしうるものと弁明していた(杉田定一家文書)。しかし、南越倶楽部内、とくに坂井・吉田両郡を中心に彼らの行動に対する猜疑は容易には払拭せず、永田の策略はひとまず成功しなかった。そしてまた、これまで南越倶楽部に対して去就の不鮮明であった竹尾茂は、県会内の勢力基盤を背景にようやく自由党の一角に進入することを試み、大野郡の林彦一、近藤善助らも竹尾と協動することになった。
 政局は第三議会閉会後の二十六年七月、松方内閣が選挙干渉処分をめぐる閣内不一致のため総辞職し、八月には第二次伊藤内閣が組閣された。議会閉会後、民党は党勢拡大のため地方遊説に乗り出し、他方政府を援護した中央交渉部所属の議員らは、西郷従道、品川弥二郎を擁して六月、新たに国民協会を組織し、勢力扶植のため地方巡遊を始めることになる。そして、八月末に同協会の渡辺洪基(武生出身)一行の来県が予定されていた。杉田定一を中心とした県内自由党勢力は二回の総選挙を通じて内部に多くの亀裂を生じ、杉田に対する衆望にも若干のかげりが見え、彼の政治行動に対する中傷すら生じる状況をもたらしていた。
 なお、自由党は二十四年十月の党大会で党則を改正し、党大会を代議士と党員が選出する各府県二人の代議員で構成することになり、党運営に議員を重視する方針をとることになった。そして他方、中央における議員重視の組織体制から生じる院外活動の後退を是正し、その活性化のために地方連合制が志向された。このために東北、関東、関西、九州、北信の各ブロックの強化拡充が企図され、二十五年五月に北越七州(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡)と信濃を合わせた北信会の準備集会がもたれ、十月に越後高田において第一回北信八州会が開かれ、第二回を福井県で開くことが決議されていた。
 こうした状勢のなかに七月、帰県した代議士の慰労会の席上、党勢の拡大と国民協会の侵入排除のため各郡を巡回遊説することが決議され、七月下旬には杉田、加藤与次兵衛、永田および『若越自由新聞』主筆の小田垣哲次郎などによる県内巡回が行われた。『自由』によれば、二十四日福井、二十五日大野、二十六日勝山、二十八日武生と実施され、各演説会場には二〇〇〇人前後の聴衆が参集し、五〇〇人余の新党員を獲得したとその成功が強調されている(資10 一―二九六〜二九八)。ついで八月初め丹生・足羽・坂井郡への遊説が行われ、その成果をふまえて八月二十一日夜、新党員を集め懇親会を開催し、新しく南越自由会を設立することになった。幹事には永田と竹尾が、主計に青山庄兵衛と坪田仁兵衛が選ばれ、小田垣が事務を差配した。
 こうした動きに対し南越倶楽部の旧理事の増田耕二郎、松下豊吉により当然のことながら激しい抗議がなされたが、結局彼らは排除され、ここに南越倶楽部はその幕を下すことになった。このことは従来の県内政治勢力の一つの転換を物語るものであった。なお、この巡回遊説に山田欽二が参加しており、また九月には公明会の野尻太三郎らにより丹生郡における自由党員募集と南越自由会の勢力拡張と公明会員募集のための運動が展開された(小泉教太郎家文書)。
 こうして、南越自由会結成後は杉田中心の県内政治舞台に新しく永田を中核に丹南三郡の青年政客による政治勢力の登場があり、また南越自由会の指導権をめぐって丹南勢力、足羽・大野郡勢力、吉田・坂井郡勢力の綱引きが行われようとしていた。さらに南越自由会の出現は若越自由新聞社にも大きな影響をあたえ、主筆小田垣と社主大橋松二郎との間に確執が生じ、以後同新聞は漸次南越自由会に批判的立場をとるにいたった。



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