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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    四 日露「戦後経営」
      地域をゆるがす町村紛擾
 日露戦後の県下に、津波のように押し寄せたのは町村紛擾であった。各段階の選挙をめぐる抗争、郡村吏の公金費消をめぐる紛糾、激しく延引する小作争議、村政・村税の是非を問う紛擾(資11 一―六二〜六五)、大審院まで争う入会訴訟、それに日常化した水論など、この時期の記録に残るものだけでも一〇〇件を超える。このなかで、最大の件数を数えるのが、小学校をめぐる紛争であった。明治四十年(一九〇七)の小学校令改正で、四年制が六年制となり、校舎の改築や新設、教員の定数増による経費の増大で、町村は深刻な財政難に陥る。この時期の町村財政の動向をみたのが、表80で、四十一年以後の歳出総額と教育費の伸びと四十二、四十三年をピークとする町村債償還費の増大に注目しておきたい。このような町村財政に対して、郡役所は一町村一校制を勧めたため、県下の小学校数は、三十九年の三九五校から、六年目の大正元年(一九一二)には二九四校に整理される(資17 第569表)。このなかで、過重な町村税負担と学校廃立の位置の問題をめぐって、紛争があいつぐことになった。今立郡では、北日野・南中山・北中山・味真野・上池田・服間・神明の村むらで学校問題が火種となり、これに郡役所の干渉が火に油を注ぎ、紛擾は激しく燃えあがったのである。

表80 町村歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)

表80 町村歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)
 服間村は、山嶽を中にはさんで服部川・水間川の二つ谷がV字形に長く伸び、四キロメートル以上に及ぶ。服部谷には一二集落が、水間谷には一〇の集落が点在し、まとまるのに困難な村柄であった。服部・水間の両派が拮抗する村議選、そして役場の位置で争い、隔離病舎で抗争をくり広げる。当然、学校立地についても、二つの谷に二校ずつ清嘉・明化・国光・水間の四校が散在する。二十九年以後、二つの谷で激しい水害が続き、村財政が疲弊のどん底にある時、制度改正で校舎の新築・改築のラッシュをむかえる。同村では各校下の有力者の寄付金に頼って学校建築にあたる。三十四年竣工の清嘉校の増築費九五円、三十五年竣工の国光校の新築費一六七二円、三十七年竣工の水間校の新築費一九六二円、三十八年竣工の明化校の新築費一〇三一円は、いずれも、それぞれの地区の血と汗の結晶であった(上坂忠七郎家文書)。
図22 服間村の区と小学校

図22 服間村の区と小学校

 四十一年、小学校六年制の実施にあたって郡長土持は、まず五、六年生だけを清嘉小学校に収容しようとしたが、村民に遠距離通学の困難を訴えるものがあり、せめて清嘉・国光の二小学校に指定し収容されるよう陳情、郡長も村の特殊事情としてこれを承認した。そこで村会は、三か年償還の村債三〇六〇余円をもって両校を増築し、村債も四十三年にようやく償還を終える。ところが郡長が更迭され、新郡長青砥は、村経済は四校の存立を許さないとし、一村一校の県の方針を推しすすめる。四十四年六月、これに反対する村会を抑え、知事の認可をえて職権をもって村中央の藤木区に一校を新設し、すでに増築のなった清嘉・国光の両校を廃校とし、二つの谷奥にあたる明化・水間の二校を分教場に指定する。ここに村会と郡当局との抗争が始まる。村長は辞任し、有志とともに郡長指定の変更を求めるが拒否される(資11 一―三九、四〇、『福井北日本新聞』明44・5・31)。郡長青砥は、助役を村長代理に任じ、小学校新築費・同移転費四九六三円を含む四十四年度追加予算案を村会に提出させる。村会は、十月二十五日または二十八日、これを否決するが助役は即時これを再議に付し、村会はさらにこれを否決したので、助役は郡長にその処分を求める(『福井北日本新聞』明44・10・31、資11 一―四〇)。ところが、この重大な局面で郡長青砥は、あわただしく朝鮮へ転出する(『福井新聞』明44・10・25、28、11・9)。新任まもない郡長原田は、十一月六日、村会に助役発案のとおり執行を命ずる(資11 一―四〇)。
 村民は有志大会で「嘆願書」を決議し、事情に疎い新郡長原田に、清嘉・国光両校の増築の経過を述べて、前郡長青砥が村会・村民の意向に反して、職権でことを運んだ点を訴え、村の事情を斟酌して二校二分校の現状を維持してほしいと嘆願した。しかし、十二月二十四日には、新校舎の工事入札が実施される。そこで、村民代表は四十五年一月十九日、県庁に出頭して学校問題で陳情した(『福井新聞』明44・12・1、45・1・20、21)。おそらくこの時、前年十一月六日の郡長処分を不当として、その取消の裁決を求めたのであろう。しかし、四十五年二月十六日の知事裁決は、郡長の処分を追認し村会の要請を退けたのである(資11 一―四〇)。五月三十一日をもって、いままでの四校が廃止され、六月一日、服間尋常高等小学校が創立され、新校舎の落成式も七月七日には挙行される(『福井日報』明45・5・26、7・9)。
 服間村の学校問題では、郡役所のあまりの画一主義、郡長の官僚的業績志向と、これに粘り強く抵抗する村会・村民の自治の主張が鮮明であった。そして、世論とくに新聞も政友・非政友の立場を越えて、村会・村民に同情的であった。世論の凝視が今立郡政に集まるなかで、前郡長青砥と側近の課長、それに土木係と請負業者にまつわる疑惑が指摘され、これがやがて検察を動かし一大疑獄事件に発展する。日露戦後の郡歳出・主要費目の推移を示した表81を見たい。日清戦後との比較で明確なのは、土木費の比重のきわだった膨張であった。この時期に、郡道が盛んに造成され、これを担当する郡役所が大きな役割を演ずる。ここに各郡で、路線をめぐる郡会の紛争や、郡吏の疑獄事件が発生する背景があった。この時期の小学校の位置指定に職権をもつ郡長に、疑惑と警戒の目が注がれるのは当然であった。今立郡役所事件では、土木係と業者が贈収賄に問われ有罪となったほか、家宅捜索をうけた前郡長青砥側近の課長は諭旨免職となった。また、この事件では郡道開削に相当の負担をおう地係の上池田村民一五〇〇人が大挙して郡役所へ押しかけ、郡長に寄付金の返還をせまるなど紛糾を重ねたのである(『福井日報』大1・8・11〜14、10・1、12・7)。

表81 郡歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)

表81 郡歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)



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