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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    四 日露「戦後経営」
      重税と勤倹貯蓄の奇妙な並存
 松原五十三県会議員は、陸軍教導団出身の将校として、日露戦争を戦った金鵄勲章保持者であった(『県議会史』議員名鑑)。彼は、明治四十二年(一九〇九)十二月の通常県会で、一〇五万円の新年度予算に対して、激しく県費の緊縮を求めた(明治四二年『通常福井県会会議録』)。
 県当局者ニ於テハ、民情ノ如何ヲ考ヘズシテ、猛然此予算ヲ作成セラレシニハ非サルカノ感ナキ能ハズ、……県民ハ負担ノ重キニ苦シミ、到ル処嘆声ヲ聞カサルハナシ……今、県民ノ状態ヲ如何、顧ルニ商家ハ、近年、羽二重生糸ノ不振ニ困難シ、又農家ハ米価ノ近年ニナキ低落ニ殆ンド顔色ナキ有様ニシテ、今日、県民ハ国税以下ノ負担ニ全力ヲ傾注シ、更ニ他ヲ顧ルノ遑ナキ状態ニアリ、然ラバ本年度ノ如キハ、県当局ニ於テハ大英断ヲ以テ県費緊縮ヲ実行サルベキ時期ナリ。
 松原県議が、きびしく緊縮を求めた背景を、一戸あたりの税負担の推移を示した図21で検証してみよう。日露戦前の三十六年に二七円余であった税負担は「非常特別税」下の三十八年、三二円を超える。「非常特別税」は戦後恒久化され、さらなる増税を加える。四十年恐慌が、慢性化してひときわ深刻となる四十二年、国税は絶頂をきわめる。その後、税制整理で国税は抑制されるが、地方税は、その後も膨張を加速させる。そこで税負担の総額では、明治終末から大正初頭にかけて五〇円に近づく。しかも国税では間接税に、地方税では戸数割に、それぞれウエートをかける。両税は、ともに大衆課税の性格が強く、これが小農・市街地細民から中小商工市民にいたる民衆の生活を圧迫して、「生活難」は時代の流行語となったのである。
図21 福井県の1戸あたり税負担(明治23〜大正2年)

図21 福井県の1戸あたり税負担(明治23〜大正2年)

 「戦後経営」を合言葉として、県庁・郡役所・町村役場を通じた官公吏の活動が、きわだつ時代が到来した。四十年十二月、阪本外字之助知事に代わって赴任した中村純九郎知事は、戊申詔書にあやかって「自彊斎感泣翁」などと呼ばれ、ひのき笠の農民スタイルで、町村をくまなく巡回して「勤労と倹約と貯蓄」を説いて歩いた。その下で、敏腕をうたわれた池松時和内務部長は、四十五年三月に知事に昇任したが、帝国大学法科の出身としては初めての福井県知事で、盛んに若手を郡長に任命して、町や村の振興につとめさせたのであった。町村をくまなくまわる知事にならって、郡長をはじめ郡役所の町村への指導が、異常ともいえるエネルギーを発揮して町村を鞭撻したが、こうして町村は、いやおうなしに「戦後経営」の渦の中に投げ込まれていく。こうした動向の一つが、「勤倹貯蓄組合」の勧奨である。四十二年というと、不況にあえぐ県下で国税の徴収が、絶頂をきわめた年であり、市町村税の滞納者三万三五四人・滞納額五万九七六六円となってこれまたピークに達した年である。この年、各郡長が、競って郵便局長や郡の書記をともなって、村むらを精力的にまわり勤倹貯蓄を呼びかけたのである(『福井新聞』明42・12・4、17)。町村の大字ごとに勤倹貯蓄組合を作り、村落共同体の力で零細な貯蓄を集めて巨大な貯蓄を築き上げていく、郡村吏員の一大県民運動であった。その初期にあたる四十年六月、県下の勤倹貯蓄組合数は一五二、貯蓄金総額は一万六四八三円であった。これが五年後の四十五年六月には、組合数八三六、貯蓄金一六万三三五六円に増大する。組合の貯蓄金は、この間、ほぼ一〇倍の驚異的な伸びであった(『福井新聞』明40・11・14、『福井日報』大1・10・25)。この「勤倹貯蓄組合」による貯蓄方式は、払戻しにきびしい制限があり、町村基本財産にあてられることが勧奨されるなど、半ば税金的な強制貯金という性格をもっていた。こうして全国から集められた零細な貯蓄の積み上げは、政府の「戦後経営」とその財政危機を支えて財政投融資にあてられたのである。そのごく一部は、四十三年以後県にも低利資金として農工銀行経由で還流され、耕地整理や産業組合に融資される(「指示事項」)。郡長と郡役所の金集めは、これにとどまらない。日本赤十字社、愛国婦人会、義勇艦隊の募金や会費など、すさまじいばかりで、県会でも「郡書記旅費ノ使用方ハ、甚ダ乱脈ニ流レントスルノ傾キアリ」と批判され「本年ノ如キハ農家ニ米価低廉ノ為メ、殊ノ外苦痛ヲ感シ居ル際ナレバ、余リ御歩キニナラヌ方宜シカラン」と郡書記の旅費縮減の予算修正が可決されることになったのである(明治四二年『通常福井県会会議録』)。



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