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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    四 日露「戦後経営」
      県営移出米検査をめぐる地主と農民
 稲作技術の改良とならぶ官僚農政のもう一つの課題は産米改良であった。越前米も若狭米も、かつては「御蔵米」「明里米」として俵装も内容も吟味をつくされて、堂島市場でも高い評価をえていた。しかし、金納地租となって権力の規制がはずされ、北陸の気象の影響がもろにでて、福井県産米は、乾燥不十分な軟質米として声価を落とすことになった。資本主義的米穀市場が形成されてくると、きびしい全国市場の評価によって各地の産米が格づけを強いられる。こうして各地産米の評価が白日のもとにさらされ、各府県は競って産米改良に乗り出す。福井県でも、明治四十年(一九〇七)から始まる県営移出米検査と四十五年の県営産米検査(資11 二―六)への大きな布石として、まず三十八年十二月、福井県産米取締規則が制定される。米の品質を高めるために、乾燥の徹底、厳密な調製、確実な容量、俵装の方式などをこと細かに決め、さらに生産者の責任の所在を明示する木札を義務づけ、これらを拘留または科料の罰則つきで規定したのである(本保区有文書)。しかし、産米取締規則によって成果があがったとしても、市場声価の上昇の利益は、販売米の多い地主にのみ集まる。そこで県当局は、産米改良に「直接に多大の労力と時間を消費したる小作人は、比較的その得益をみること寡少なるがごとき勧(ママ)あり……一の衝突を惹起するは……免れざる所なるを以て……産米取締規則の実施に際し、とくに地主会を設けて小作人奨励方法を協定せしむべき旨訓令」(旧東浦村役場文書)を発したのである。三十九年、産米取締規則が実施されると、県の指導のもとで町村ごとに産米改良組合が作られて、産米審査が行われる(本保区有文書)。四十年、いよいよ県営移出米検査の年をむかえ、当局は、二一人の県吏員を産米督励員として各郡市へおく。産米督励員は、町村をまわり、地主会の設立につとめ、地主に小作奨励をはたらきかけ、町村産米審査の督励につとめ、県営移出米検査に備えたのであった(『福井新聞』明40・12・4、18)。
 しかし、四十年の産米をめぐっては、県内各地で小作争議が続発することになった。この年、南条郡湯尾村湯尾(今庄町)では、小作農が、産米検査による品質向上について、小作の労力負担分を小作料減額として要求、これを拒んだ地主と紛争になったが、郡長・警察署長が仲裁に入り、小作農の要求する米一俵につき二升の減額の、すべてが認められて解決した(資11 一―二八〇)。同時に湯尾村地主会は、以後一等米納入の小作には俵あたり二〇銭の奨励金をあたえ、二等米に一五銭、三等米に一〇銭、普通米でも五銭を、それぞれ賞与することを決めている(『福井新聞』明41・2・4、7・30)。このほか小作争議は、南条郡武生町・北杣山村、今立郡中河村・舟津村・神明村・北中山村、丹生郡吉野村・朝日村、などで呼応するように発生している。(資11 一―二八〇、『福井新聞』明41・1・12、17、21、23、2・5、42・5・1)。四十年秋から、わずか数か月間でこれほど小作争議が集中したことは、県内ではかつてないことであった。しかも形勢不穏から警官が関与したと伝えられるものだけでも、湯尾・舟津・吉野の三件を数えている。産米取締規則と県営移出米検査は、この地主と小作の激しい争いの舞台となっていたのである。まず小作農の言い分を、北中山村できいてみよう(『福井新聞』明41・1・12)。
 産米取締の厳重になりしより……稲架に七日置けばよかりしものを十日置く事となり、その上籾干しをも為さざるべからず、それが為めに一割の減米をなす所へ青米粉米を精選するより減ずるもの一割、都合あわせて二割を減じ、且つ俵米その他に就ても非常なる手数と労力を要する事となり、それだけ米質の品位を高め米価を高めし事なれば年貢米を減額するは当然なり
さらにこの小作農は、一反に使う肥料代八円をあげて、生計が立ち行かないと訴えている。これに対して地主は、日露戦前、地価の三・三パーセントであった地租が、非常特別税で五・五パーセントにはね上がったまま戦後も据えおかれ、これに地方税の増勢が加わり、しかも四十年の恐慌で米価低落の不安を抱え、小作奨励について、産米督励員や、たびたびの町村長会での郡の奨励にもかかわらず、消極姿勢が目立つことになった。たとえば、南条郡一三か町村のうち、なんらかの小作奨励策を設けたのは、湯尾・宅良・鹿蒜・南杣山の四か村にすぎず、あとの九か町村は奨励策をもたなかったのである(旧東浦村役場文書、旧宮川村役場文書、『福井新聞』明41・7・30)。これが、小作争議が激化した背景であった。
 以前の小作争議は、おおかた凶作を契機として起こり、小作料の減免を求めるものであった。これに対して、四十、四十一年の産米取締規則と移出米検査の実施にかかわる争いは、小作争議の新しい段階を示すものとなった。それは、小作農民が、自らの労力と肥料などの「費用価格」を正当なものとして意識し、これを主張しはじめた点で一つのエポックを画し、やがて大正後期の本格的な小作争議へとつながる。さきの北中山村の農民も、経費に肥料代をあげていたが、日露戦後の農業の著しい特徴は、肥料投入の増大にあった。四十一年の福井県の肥料販売高は、三〇六万余円で、これは反あたり五円に相当するという。それが四十四年には、四〇九万余円に達する。そして、この間に肥料の主役は、北海道産の魚肥から満州産の大豆粕へと徐々に転換する(『福井新聞』明42・5・5、15、『福井日報』明45・5・11)。
 日露戦後、政府の必死の食糧増産の諸施策が、病虫害対策や農事改良を促し、産米取締規則や県営移出米検査を推しすすめるが、この間に農民は、労働と肥料を多投する農業技術を身につけ、しだいに「労力と費用」を意識する小商品生産者へ成長していく。そして、県下の米の反あたり収量は上昇する。日露戦争以前、一・六四石であったものが、大正期に入って二石の大台越えは確実なものになったのである(『県統計書』)。
 さて日露「戦後経営」という観点から、政策当局と県民の対応のさまざまな側面をみてきたが、ここで、日露戦後の県政の特徴を、財政歳出の面からみた表77によって一瞥しておきたい。歳出総額では、水害復旧で土木費が増大した大正二年を除いて、かなり抑制的であった。戦前との対比でみると最高二割程度の歳出増加にとどまっている。物価と人件費が漸騰するなかでは、かなりブレーキのきいた財政運営といえる。土木費は、比率も指数も低落したのに対して、勧業費は比率・指数ともに破格の増大を示している。また各費目の内容では、インフレによる人件費の高騰が注目される。たとえば警察費は、八割前後が人件費で占められ、インフレにともなう増俸が経費漸増の要因であった(『県統計書』、明治四二年『通常福井県会会議録』、大正元年『通常福井県会会議録』)。こうした事情は、教育費や郡役所費にも共通する。勧業費の激しい増勢は、政府の「戦後経営」と連動する政策推進を裏うちするもので、これを表式化したものが、表78の勧業費の費目別人件費構成である。輸出向羽二重から産米改良へ重心を移しながら、勧業政策を推しすすめてきた当局と県会の営みを、人事配置の動向からみてとることができよう。

表77 県歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)

表77 県歳出の主要費目別推移(明治39〜大正2年度)



表78 県勧業費の費目別人件費構成(明治39〜大正2年度)

表78 県勧業費の費目別人件費構成(明治39〜大正2年度)



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