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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    四 日露「戦後経営」
      輸出向羽二重機業再生の旗手
 坂井郡春江村(春江町)の激しい力織機化の進行ぶりはすでにみたが、ここでは、力織機化を推しすすめる同村の共厚舎力織機部の動向にふれておこう。共厚舎の設立は、明治二十六年(一八九三)とも三十年九月とも伝えられる。製品の共同販売市場をもち、技術交換や職工争奪防止につとめる同業組合であった(前掲『三十五年史』、『福井県自治民政資料』、『福井日報』大2・11・11)。四十二年から四十三年、爆発的に力織機化が進むなかで、共厚舎は、力織機部の看板を掲げて再出発をはかる。生産性向上と品質改善をかぎりなく追求する点で、共厚舎は、県下の耳目を驚かせ、うち続く不況で沈滞しきっていた業界の、革新と再生の旗手とはやされた(『福井新聞』明43・10・9、11、13〜15)。
 四十三年十月六日、同村江留上で、競争旗と優勝旗の授与式が挙行された。競争旗は、各工場内のもっとも優秀な織工に奨励金とともにあたえられる。優勝旗は、各工場間の品質と生産性の競争で、月間の力織機一台あたり最高の成績をおさめた工場主にあたえられる。式典は、県知事代理三矢事務官・林県工業試験場長・河村羽二重検査所技師・郡長・村長などが臨場し、共厚舎の得意先が招かれ、共厚舎所属の工場主一七人と職工四六〇人が参加するという盛んなものであった。ちなみに、優勝旗は津田式力織機の製造元である東京・麻布の松尾工場の寄贈によるものであった。この優勝旗授与による生産性向上方式は、業界に大きな影響をあたえる。十一月十八日、県下でもっとも多くの力織機工場群をかかえる福井市で、約三〇の組合員をもつ斉外式力織機組合が、優勝旗授与の制度を定める。斉外式力織機を扱う岡部商店の協賛をえて、成績優秀な組合員には銀杯を、職工には奨励金をあたえる、というものであった(『福井新聞』明43・10・6、7、9、13、11・20)。
 共厚舎は、品質改善と新製品への取組みなどにも意欲的であった。製織品改善に専念する技師の人選を、県織物検査所にゆだね、月額六〇円の高給をもってこれを迎える。また、東京からは染色技手を招いて内地向織物への新事業をもめざす。低迷する輸出に対して、積極的な打開のみちをさぐるものであった(『福井新聞』明43・9・18、12・26、27)。海外市場の「粗製濫造」の非難に対する切札として、四十二年四月に実施をみた県営検査は、従来の組合検査と比べて格段にきびしく、ただちに各地の機業家に動揺が広がった。県への大衆的陳情や、機業家大会が開かれ、やがて廃業に追い込まれる機業が出るほどであった(『福井新聞』明42・4・6、5・15、43・12・28)。業界の主流も県営検査には、こぞって不満と批判をあびせていた(明治四一年『通常福井県会会議録』、明治四二年『通常福井県会会議録』)。しかし共厚舎は、終始県営検査を支持して、四十五年一月には、県営検査の優良品には、丸に共の字の共厚舎商標を貼付する、というほどで品質重視を鮮明に打ち出していた(『福井新聞』明43・10・14、『福井北日本新聞』明45・1・17)。
 脚光をあびる共厚舎にも、課題は山づみであった。共厚舎・力織機組合は、すぐれた資金調達能力をもつ春江村中小地主の組合である。しかし、力織機が相当な固定資本を要するので、急激な力織機化により、資金調達があやぶまれていた(『福井新聞』明43・10・14、15)。四十二年十月の送電工事竣工から始まった春江村の力織機据付は、四十四年末には一一七七台に達するが、この間わずか二年余のことであった。津田式力織機一台九〇円として、一〇万六〇〇〇円に及ぶ固定資本を要したことになる。ほかに運転資金として原料生糸代が年一八〇万円、月間一五万円を要するという(『福井新聞』明43・10・9、15)。なおも拡大路線をひたはしる共厚舎は、このさしせまった資金問題を、かねての原料生糸の共同購入の構想とともに一挙に解決しようとする。四十三年十二月、産業組合の設立準備が進み、組合員の出資額は一口一〇〇円で、一人一〇口の持分という。そして四十四年三月、春江信用購買販売組合が、組合員一八人で設立されたのである。原料購入と製品販売は組合員個々が行い、組合は手形発行と決済、借入資金の信用機能を担当し、組合員の金利負担の低減などに寄与する。そして年間貸付金は、一六二万七〇〇〇円にも及んだという(『福井新聞』明43・10・13、12・30、『福井日報』大2・11・11)。共厚舎は、その後も、傘下に上村信用購買販売組合など四つの産業組合を加えて連帯の輪を大きく広げていく(前掲『三十五年史』)。



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