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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    四 日露「戦後経営」
      輸出向羽二重工業の低迷と勧業政策の展開
 すでにみてきたように、日露戦争は、賠償金なしで講和が成立し、一七億円の戦費は、そのまま戦後の国民の負担となった。そのうえ、政府はロシア・アメリカを仮想敵国とする大規模な陸海軍の建設を柱に、植民地経営や産業近代化の諸施策を推しすすめた。いわゆる日露「戦後経営」である。当時の経済小国の力量をはるかに超えた「戦後経営」は、当初から破綻の因子を抱えていた。戦後の慢性不況のなかで、貿易収支の恒常的出超と、巨額の国債の元利償還で、財政と経済は、まったく行き詰っていた。政府の危機打開策は、新たな外債を導入して当面の危機を避けつつ、国内産業の振興をはかり、やがて国際収支の黒字転換を期待する、というものであった。輸出の飛躍的拡大と、懸命な輸入防御に「戦後経営」の成否が託されることになったのである。
 当時、福井県の主力産業であった輸出向羽二重工業は、製糸業につぐ外貨獲得産業として期待されながら、日露戦争後は、不振と低迷のなかにあった。図19にみる日本製羽二重のアメリカ市場からの明らかな後退は、第一に、欧米絹織物工業における技術革新、なかんずく力織機化の急速な進展に起因する。もはや、安価な労賃にのみ依存する日本製羽二重は、品質・価格面で欧米品に対抗することができなくなっていたのである。第二に、まず日本製品は、手織機による小規模生産からくる品質の不均一があり、さらに練り加工も、手仕事による無理な大量処理から不良品を発生させ、海外市場から「粗製濫造」の非難をあびることになった(『横浜市史』四巻上、資17 第337表)。
図19 米国市場における諸国の絹織物輸出(明治38年=100)

図19 米国市場における諸国の絹織物輸出(明治38年=100)

 「粗製濫造」の非難への対応では、明治三十九年(一九〇六)、輸出羽二重精練業法が公布され、精練業は職人の手仕事からの脱却、蒸気汽鑵・遠心力絞水機の着装が義務づけられ、四十四年の福井県精練株式会社の創立によって一七の業者が統合されて、近代的装置工業へと移行する。一方、四十二年四月、輸出織物検査規則による県営検査が施行される。こうして「粗製濫造」の非難を一掃して、品質改善を実現する態勢が整うことになったのである(福井県絹織物同業組合『三十五年史』)。
 製織過程の改善では、はやくも三十五年、福井県工業試験場が開設されると(告示第二二三号)、翌三十六年、農商務省は、フランス・ヂュードリッシ社製力織機五台を貸与し、羽二重の試織が始まる。さらに三十九年、横浜・茂木商店から、数種の国産力織機の提供をうけ試織を続ける。いずれも、すぐれた成果をあげ内外市場から高い評価をうけ注文が殺到するほどであった。しかも、試織の実況は機業家に自由に見せ、四十年の縦覧者は二三七一人にも達したから、業界への宣伝効果は絶大なものとなった(前掲『三十五年史』、農商務省『輸出絹織物調査資料』、明治四一年『通常福井県会会議録』)。こうして、輸出向羽二重機業の手織機から力織機への変革は、農商務省・県庁勧業課の主導のもとで始められ、四十年を力織機化の起点として、わずか六年目の大正二年(一九一三)には力織機台数が、手織機台数をしのぐにいたる(資17 第332表)。この嵐のような業界変革のプロセスをみたのが、図20である。力織機の増大と手織機と職工数の激減、そして生産性の上昇を読みとることができる。まさに輸出向羽二重機業のみごとな再生であった。しかし、不況が慢性化し「数百台の機具は忽然として鳴りを静め、幾百の工女は散乱して跡なく……各処の機業工場相次いで倒れ」、機業戸数は、明治四十三年の四五五八戸から、大正五年には一四三六戸に急減する(『福井新聞』明43・10・13、資17 第330表)。こうして、輸出向羽二重機業は、手工業的家内工業から、小規模機械制工場への転換をとげ、大正中期の黄金時代への展望を開くことに成功する。この新しい地平を拓く機業家集団は県下各地に排出したが、その典型の一つを、水田の広がる坂井郡の一村落でみることにしよう。
図20 力織機導入過程の羽二重生産(明治38〜大正3年)

図20 力織機導入過程の羽二重生産(明治38〜大正3年)



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