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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    三 日露戦争
      戦時下の県民生活と県民心理の動向
 恐怖心と敵愾心の対象であったロシアとの戦争も、当初は陸海軍の破竹の連戦連勝をもって展開していった。明治三十七年(一九〇四)二月、仁川と旅順のロシア艦艇に奇襲攻撃を仕かけ、黄海の制海権を手中にした海軍。その援護下に、陸軍の朝鮮上陸と北上、五月の鴨緑江渡河作戦、さらに遼東半島上陸と南山の戦闘、七月には満州軍総司令部の大連上陸。こうして二月から七月にかけて戦争は県民の不安心理を払拭するように進んだ。県民は戦勝に酔い、福井市をはじめ各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。戦局の推移についても楽観的な気分がみなぎり、旅順陥落も五月中には決する、とか六月十日ないし十五日陥落説とかが、ささやかれはじめていた(『福井北日本新聞』明37・5・13、14、28、31、6・3)。そして戦局の最大の山場とみられていた旅順と遼陽で勝利をおさめれば英独両帝の調停が入る、という観測も流れていた(『福井新聞』明37・6・29)。七月下旬、旅順要塞に降伏勧誘状が数度にわたり発せられた、とする報道が伝えられ、待望の旅順陥落も時間の問題視される。すでに新聞号外も準備され、それが誤って配布される事件が八月七日に武生で起き、一部の町民が戸ごとに日の丸を押し立て、提灯行列の相談をするなどの騒ぎとなった(『福井北日本新聞』明37・7・29、8・2、9)。
 このように県内にみなぎる楽勝ムードに、強烈な冷水を浴びせかけたのが、八月十九日に開始された第一回旅順総攻撃の惨憺たる失敗であった。旅順陥落の快報は二十三日ごろと予想され、各新聞社の合同計画で一二発の号砲の準備も整い、これをうけて福井市内いっせいに日の丸や旭日旗を掲げ、提灯をつり提灯行列を催す態勢が、各町各団体ごとにできあがっていた。阪本県知事は、これらの行列が九十九橋・幸橋を通過の際、万一の変災なきを期するため、夜中ににわかに第二課長を招き応急措置を命じた。各新聞社も特約通信社より注意電報があり、徹夜で号外発行の手筈を整えていた。うわさが次々と伝わり、市中一般に異様な活気を生じたのであった。しかし、大快報は同夜も二十四日も二十五日も二十六日もついに来なかった(『福井新聞』明37・8・27)。そして、来たのは続々と後送される負傷兵であった。第九師団金沢予備病院に収容された傷病兵は、九月末現在で五一〇〇人に達するにいたった(『福井新聞』明37・8・27、『福井北日本新聞』明37・8・25、10・1、2)。県民は師団定員のほぼ半ばの傷病兵という近代戦の悲惨な現実を、傷病見舞いの兵士から知らされることになる。あるいは、凄惨をきわめた旅順攻囲戦の実情を兵士の書簡などで報知する新聞紙面は、県民の心理に強い影響をあたえた(『福井北日本新聞』明37・9・8、15、30)。
 さて戦局の進展にともない、大規模動員による労働力不足が農村・都市をとわず深刻となった。また増税と公債による戦費の確保が進む一方で、緊縮と勤倹貯蓄が強調されると当然、一般市況が萎縮し、不景気の様相が色濃くなった。百三十銀行休業を契機とする金融不安、三十七年八月の糸価高騰を転機とする羽二重不振が続いた(『福井北日本新聞』明37・6・21、『福井新聞』明37・6・28、29、38・4・12)。丹生郡や今立郡では、小作騒擾が発生する。地租増徴・国債応募・軍資金寄付など戦時負担の急拡大が、地主の小作料引上げと小作人の反対運動の引金となった(『福井北日本新聞』明38・2・14)。このような経済情勢のなかで、もっともきびしく困難な生活に追い込まれたのは出征兵士の留守家族であった。地域諸団体の救護活動といっても、十分な支援がなしえないのは当然であった。だからこそ留守家族の問題が、新聞紙上で折々に取り上げられたのである。出征兵士の軍事郵便も、必ず切々と哀願するように留守家族への援助を訴え続けるのであった(資11 一―三八六、「剣光余影」上坂忠七郎家文書、大江志乃夫『兵士たちの日露戦争』)。
 毎々御依願申ばかりの様な次第ニ御座候へ共、妻よりの報ニ依り今ニ盆んニも近ずき候ニ、其はらい金とニ困り居る事ニ御座候が、どをぞ人間二人を助けるのと思召し金弐拾円御貸し与被下度、比の金ハ亡母病気中の薬代と医師のはらいニ致す事ニ御座候間、何とぞ何卒御貸し与被下様願上候。実ハ御当家様ニハ借金の有る上ニ、又々の御依願でどんなニ御腹立の事で有り候が、何分生の身の侭ニ行かん軍隊ニ居る事故御推察被下て……私しも此事が心配ニ相成大切の軍務も身ニ入らん様ニ成るぐらいですから、どをかどをか御助け下被様御依願申上候。……此の手紙の着する時ハ講和の話も何ニとか成てくる頃ですから其の和をまちて居ります
ひたすら郷里の家族の生活を案じて、講和と帰国を待ち望む気持がにじみでている。三十八年六月九日、米国大統領の講和勧告が日露両国に出され、八月十日から講和会議が始まる直前の一兵士の書簡である。



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