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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    三 日露戦争
      日露講和への期待と現実
 明治三十七年(一九〇四)十二月五日、旅順二〇三高地が占領され、ロシア旅順艦隊が撃滅された時点の十二月十四日、フランスの講和仲介の動きがあらわれた。しかし、日露両軍は大軍を擁して奉天前面で対峙しており、バルチック艦隊も東洋遠征の途上にあって、機はいまだ熟していなかった。三十八年三月十日、奉天会戦でロシア軍が戦略的な後退をとげた直後から、日本政府と大本営の有利な講和を模索する動きは本格的なものとなった。それは、ハルビンに引いたロシア軍が、鉄道に依拠して兵力を増強しているのに対して、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みが立たなくなっていたからである。これを第九師団管下についてみると、金沢予備病院に入院中の傷病兵は、旅順攻略戦が終わってその数を減じ、一時は三一〇〇余人と半減したが、奉天の大激戦で急増する。四月九日現在で、金沢に五〇七八人、敦賀分院に七四人、鯖江分院に五六人がそれぞれ収容されている。入院患者の総員は五二〇八人であるが、ほかに帰郷療養者二二〇五人を合わせると、傷病者数は七四一三人に達する(『福井新聞』明38・4・12)。第九師団の戦死者は、主要な旅順・奉天の戦闘だけで四二四二人に及んでいたから、これらを考慮すれば、奉天会戦以後、第九師団の戦闘能力の喪失状態は明白であった(鯖江連隊については表70表71)。
写真84 日露戦争出征兵士の書簡集

写真84 日露戦争出征兵士の書簡集

 戦争の全局面を冷静にみて、強い危機意識をもっていた大本営と政府が、五月二十七日の日本海海戦の大勝を講和への絶好の機会ととらえたのは、当然であった。アメリカ大統領のあっせんによる、講和勧告と日露両国による勧告受諾の直後、六月十八日大本営は、陸軍に樺太出撃を命ずる。有利な講和条件を確保するためであった。七月四日、陸軍は南樺太に上陸、同三十一日のロシア軍の降伏をもって全樺太を占領する。八月十日ポーツマス講和会議が始まる。「勝者の立場」に立とうとする日本全権の交渉の焦点は、ロシアによる賠償金の支払いと、樺太全島の割譲であった。ところがロシア全権は、韓国指導権・旅順大連租借権の譲渡・東清鉄道南満州支線の譲渡問題などについては、日本の要求に応じたが、肝心の賠償金と樺太割譲は頑強に拒否した。結局、日本全権も政府も、交渉決裂による戦争継続か南樺太割譲のみで妥結かの、ぎりぎりの選択をせまられた。九月五日、政府は、「屈辱的講和」と当時の世論が激しく非難する条約に、調印を余儀なくされたのであった。他方、戦争の耐えがたい犠牲と負担を忍び、現象面での「大勝利」を確信してきた国民は、戦勝の「あかし」である筈の賠償金も取れず、占領地樺太の北半分を放棄する「勝者の屈辱」を痛憤する。歴戦の一兵士は、凱旋をまえにして、やり場のない怒りを書きしたためている(資11 一―三八八、上坂忠七郎家文書)。
  出征軍人一百万ノ内、六万余ノ況死ノ名誉ナル戦死戦友ハ犬死トサセ、嘸々地下ニテ
  護国ノ鬼神モ如何ナル憾デシヨウト思イマスト涙ガ流レマス。尚又二十億円ノ大借金モ
  、五千万ノ国民ガフタント来テワ言語道断デス。世界ノ内只ノ一人リノ大切ナル子息ヲ
  無クシテモ、名誉ノ死ナリ国ノ為メナリト心得ヱ、老ノ身ニシテ涙一滴出サズ勇ミ居ラレ
  シ数千万ノ老父母ヤ、愛情ノ夫ヲ無クシタリ、……父ヲ無クセシモ何ノ得ル処モ無ク只
  只是レ等ノ死ヲ犬死トセシハ誰レノ罪ナルヤ、皆是レ当局政府ト小村ノ馬鹿奴郎デス。
  ……八ツザキニ致テモ未ダ腹ガイヱマセヌ。……不肖如キ一卒乍日夜、戦后ノ有様ヲ
  思イマスニ、我レ我レ如キ貧ノ一軍人ヤ国民ハ喰ノニ食無ク、着ルニ衣無ク、世中ハ不
  景気ト来テ何ノ楽ム処モ無ク、諸税金ハ増々増加サルヽ事ト存ズレバ、伊ヤ早ヤ凱旋  ノ身ノ今日トナリ幸カ不幸カ、君に捧げシ命ヲ長ラヱシガ残念ノ様ナ心持チガ致シマス
  。
写真85 講話条約への怒りを記す兵士書簡

写真85 講話条約への怒りを記す兵士書簡

 講和条約調印の九月五日、東京日比谷の講和反対国民大会に参集した民衆が、集会禁止を命ずる警官と衝突して騒擾事件となり、政府は都下に戒厳令を布くにいたった。しかし、講和に反対する運動は全国に蔓延する。九日、福井市では有志主催の非講和市民大会が、藤島神社境内で予定されていた。ところが、警察当局は発起人を召喚して大会禁止を口達、強いて開催すれば警察権を発動して発起人を検束すると威嚇した。そこで、やむなく月見亭での懇親会に切りかえて、講和反対の決議をするにとどまった。ところが、十二日の小浜町八菱座では、若州国民大会が開催され、中村市五郎の「断然和約廃棄を求む」演説などがあり、二十日の東京での非講和全国委員会へ、若狭の政友会代議士荻野芳蔵が列席し全国の動きに連帯する手筈という。(『福井北日本新聞』明38・9・10、『若州』明38・9・8、18)。荻野代議士は怒れる県民を代表して、政府を批判している(『若州』明38・9・18)。
  振古絶無の戦勝を抹殺し、開戦の目的を没却し、同胞数万の鮮血と幾十億もの国財を
  以て、万古不磨の屈辱を購ひ、而して更に其罪跡を掩はんが為め、国民が憲法に依て
  保障せられたる言論の自由を奪ひ、集会の自由を奪ひ、出版の自由を奪ひ、全然憲法
  一部の施行を中止して、而してクーデター(国家の暴挙)を行ひたる結果として戦勝国
  の、恐れ多くも輦轂の下に戒厳令を布くが如き、憲法治下の不祥事を演出し居るは其
  責果して何人にあるか、現内閣が自ら求めて為したる失態にして、現閣臣等は直に闕
  下に伏し骸骨を乞はさるべからざる一大重責に属す
この、福井と小浜の市民大会・国民大会は、日露戦後の新しい政治的潮流、「大正デモクラシー」への濫觴として位置づけられる。



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