日露戦争の戦費は、百万の兵士の動員と出征、兵器弾薬の進歩と激しい消耗によって政府の見透しをも大幅に上回るものとなった。一七億三〇〇〇万円にも達した戦費は、日清戦争の戦費、二億三〇〇〇万円の七・五倍、戦前三十六年の国税、一億七五〇〇万円の一〇倍にあたる。これは当時の日本の経済力をはるかに越えるものであった。二次にわたる「非常特別税」は、地租増徴を中心として営業税・所得税の増徴など直接税のみならず、各種消費税を網羅したものであった。国民にとって耐えがたい重税であったけれども、到底賄うにはたりず、戦費の八二・四パーセントにあたる一四億一八〇〇万円は、公債・借入金に頼らざるをえなかった。しかもその公債の過半は、ロンドンとニューヨークで発行されたものであった。こうして国民負担の限界を超えた部分は英米二国の金融的支援を仰いだのである。公債という、将来の国民負担まで担保に入れた戦いが、日露戦争の実態であった。したがって、政府は国民の全面的組織化をせまられ、戦時国内体制を強化したので、国民各層に深刻な影響をあたえることになった。
明治三十七年(一九〇四)三月三日、福井県では臨時県会が招集された。前年十二月すでに、可決成立している三十七年度予算を二八・三パーセントも減額更正して、戦時体制への転換がはかられたのである。増税や公債など膨大な軍費調達を、円滑に行うためには、地方財政の緊縮削減が不可欠であった。県政の最重要案件であった、九頭竜川改修の中止などの土木費の大幅削減、大野郡民の期待する大野中学の設立延期などの教育費の減額も承認された(『県議会史』二)。行政の末端に位置する市町村でも、緊縮により新事業の停止が通例となった。一方この時期の市町村では、県や郡の強い指導をうけて、公債募集・動員召集・応召軍人家族救護などの戦時特有の国家事務の遂行が、最大の行政課題とされた。こうしてすべての県民は、行財政を通じて挙国一致の戦時体制のなかに組み込まれていった。県下の戦時税外負担は表73に示したが、七二一万円という総額は、戦時大増税を喧伝された三十七、三十八両年の県民の国税負額、四四七万余円をもはるかに凌駕すること一・六倍にも及ぶものであった。そして、その最たるものが国庫債券応募である。県庁・郡役所から市町村へ割り当てられた公債は、さらに町村の区や町内ごとに細かく配分され最終的に戸別に分割される。五回に及ぶ国庫債券の募集は、発行額の二倍から九倍に及ぶ応募をえている(表74)。これは、県民の戦争意識の高揚があったとはいえ、知事・郡市長・町村長をあげての指導・勧誘と、村落・町内共同体秩序を背景とする分割方式に負うところが大であった。大野郡富田村蕨生の第一回国庫債券応募額は一五〇〇円であった。村落九六戸のうち二〇余戸を除いた七四戸が応募したとみられる。高額応募者に属する一五〇円から五〇円までの階層は一二戸、つぎの二五円応募者層が一二戸、以下は零細な大衆的応募者で占められ、とくに最下層の三円未満の応募者は二八戸となっている。まさに蕨生区という村落共同体あげての応募であった(蕨生区有文書)。 |