目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    三 日露戦争
      兵士が体験した近代的消耗戦
 二十世紀初頭の日露戦争は、以後の二つの世界大戦の先駆をなす、国民的規模での戦争となった。戦場には兵士が大規模に動員され、連発銃・機関銃・速射砲などの大量殺傷兵器が登場する。そして人的・物的の損耗の激しい戦闘が長期にわたって展開し、兵士以外の国民の生活に深刻な影響をもたらした。
 県下の出征兵士は、若狭では、明治三十七年(一九〇四)四月十六日、第一〇師団の動員令をうけて福知山歩兵第二〇連隊として出征し、遼東半島に上陸、七月第四軍に編入されて遼陽・沙河・奉天の戦闘に参加する。越前の出征兵は、五月九日に第九師団の動員下令、鯖江歩兵第三六連隊として第三軍に所属して遼東半島に上陸、旅順要塞攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦に参加する。この戦争における福井県兵士の戦没者比率の大きさは、全国第四位に位置しているが、これは越前出身の兵士が、第三軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参加したことに由来する。福井県出身の兵士の大半が所属した鯖江歩兵第三六連隊は、旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、健在者がわずか二五一人、ほぼ一個中隊の定員にすぎない惨憺たる状態に陥っていた(表70、表71)(『歩兵第三十六聯隊史』)。この戦争を体験した三六連隊の一兵士は、驚異のまなこをもってロシア軍の「文明の戦争」と日本軍の決死の戦闘ぶりを報じている(三七年九月五日付国久万治郎書簡_上坂忠七郎家文書)。

表70 歩兵第36連隊の日露戦争死傷者

表70 歩兵第36連隊の日露戦争死傷者


表71 奉天戦後の歩兵第36連隊の健在者

表71 奉天戦後の歩兵第36連隊の健在者
 只今ハ、或ル堅固ナル砲台ヲ隔ツル某地点ヨリ、○○(クロパトキン)砲台攻撃中ニ御座候。偖テ、吾人知ル如ク、彼ノ砲台ハ、世界第一トモ称セラルヽ砲台ニ候得バ、堅固ナル事ハ勿論ナルガ、亦実ニ文明之戦争ヲヤリマス。夜ト雖モ、探照灯ノ八、九ケ所ヨリモ照シ、其他花火ナドヲ上ゲテ、昼同様ニシテ、砲弾、小銃弾、亦一分時間ニ六百余発モ発撃スル機関砲(銃)等、千雷大雨霰ノ中ヲ者トモセズニ只ダ敵ヲ討ノ一念アルノミ、日夜其准備ニ取係リ、或ハ突撃シ、或ルハ工事ヲ施シ、或ルハ前紹トナリ、種々其ノ任務ヲ負ヒ、壮絶決絶ニテ、日夜攻撃致居リ候。何レ近々ニ〇〇砲台陥落、号外モ可有之候。
 兵士がこの書簡を書いた九月五日は、三六連隊が旅順第一回総攻撃で竜眼北方角面堡、いわゆるクロパトキン砲台の攻略に失敗し、ほぼ連隊全滅という予想だにしなかった打撃をうけ(表70)(資11 一―三八三)、守勢を維持しつつ、つぎの攻撃用陣地を構築中、これに加えられたロシア軍の圧倒的ともいえる猛攻を伝えたものであった。しかも、つぎの攻撃準備のこの時期にあっても、連隊長の三原大佐が前線視察中に戦死する等、多くの死傷者を出している。第九師団は、第一回総攻撃失敗で、はやくも管内での兵力補充難に陥り八月二十六日、下士二五九人、兵卒二五七一人を師団管区外から補充するよう要請するにいたった。陸軍省はこれに応じなかったが、九月の徴兵令改正で後備兵役・補充兵役を大幅に延長し、かつ第一補充兵と第二補充兵の区分を廃止した。この改正によって、動員の対象外であった三三歳から三八歳までの老兵を徴兵する道を開き、さらに体力的に劣る兵士の第一線投入を可能としたのであった。
 兵員不足とともに、武器もまた当初から不十分であった。三十七年七月十日の動員令で、予備役を終えた後備役の老兵が召集され、新たに鯖江・後備第三六連隊が編成された。しかし後備連隊には、三〇年式歩兵銃ではなく、日清戦争当時の旧式村田銃しか配備されなかった。後備連隊は本来、後方守備と兵站維持を任務としていたが、やがて兵力不足から不十分な武器をもって最前線出動を余儀なくされ、苦戦にあえぐことになった。兵員不足に加えて、弾薬の不足も深刻であった。日清戦争を通じて使った小銃弾は一三四万余発、砲弾は三万四〇〇〇発であった。これに対して日露戦争初期の三十七年五月の南山の戦闘では、わずか一日で小銃弾二一九万余発、砲弾三万四〇〇〇発を消費することで日清戦争全使用量を上回ってしまった。そこで大量の弾薬の補充は、大変な問題となった。戦前に営々と生産し備蓄してきた弾丸は、早々に使い果たし、生産の大拡充につとめたが、恒常的な不足は続いた。弾丸の輸入もままならず、素材鋼不足のために、大量の銑鉄製榴弾まで開発製造する次第となったが、これは有効な破壊力を期待できないものであった(表72)。旧式の武器をもって、けなげに戦う後備第三六連隊の一兵士が苦戦の様相を伝えている(三七年一二月四日付古市多一郎書簡 上坂忠七郎家文書)。

表72 日露戦争の砲弾供給

表72 日露戦争の砲弾供給
 敵ハ又増加シ都合拾弐ケ大隊ニモ相成リ、機関砲(銃)弐拾門ヲ有シ候ニ付、我旅団ノ少兵数ニテ此レニ抵抗スル能ハズ、退却ヲ始メタル為メ、六日間ノ戦闘ニテ我損害多大、第七聯隊第一、三中隊、卅六聯隊第一、二中隊及六中隊ハ殆ンド全滅、当聯隊第一大隊長負傷、軍医壱名捕慮(虜)被致、兵等モ沢山有之、又糧食仮倉庫、上夾河ニ於テハ焼滅シ、実退却計リ。我砲拾弐門有之候ヘ共、旧式ニテ距離四千米突以内ノ功力、敵ハ優砲ニテ六千米突以上ノ功力、其上無烟薬、我砲ハ有烟薬ニテ、速ニ敵ハ距離ヲ量リ命中、尤モ功力ヲ有ス、砲兵将校已下弐拾名モ負傷シ、我砲ハ更ニ効ナシ。



目次へ  前ページへ  次ページへ