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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    二 日清「戦後経営」
      二十世紀へ向けて県土の変貌
 福井県は、明治二十九年(一八九六)を出発点として、大災害にもめげず大きな変貌をとげる。起点は二つあり、一つは北陸線の開通であり、二つ目は河川法の公布であった。
 一つの起点となる二十九年、鯖江に連隊設置を実現した北陸線の開通は、産業発展の導火線ともなった。当時の横浜は、県産の羽二重の輸出港であるとともに、生糸の集散地であり、福井県にとっては、最大の原料生糸の移入先でもあった。この横浜・福井間は、北陸線開通以前、敦賀・横浜間は鉄路が敷かれていたが、福井・敦賀間は荷車輸送に頼らざるをえなかったため搬送日数で約九日を要していた。北陸線の開通は、これを四日に短縮させ、運賃も半値以下に低減させたのである。この輸送日数と輸送コストの削減が、県内の輸出向絹織物工業の飛躍に拍車をかける。すなわち二十九年以降、北陸線上の金津・丸岡・森田・大土呂・鯖江などの駅周辺三、四キロメートルほどの村むらに、新たな広がりをもった機業地が台頭する。江留上を中心とした春江村も、当時、駅はなく森田駅の近村であることを機縁として、有力機業地への胎動期を迎える。鯖江駅の周辺では、鯖江町を核にして、中河・舟津・新横江などの村むらに、機業化の新たな波が起こる(『県統計書』、『春江町史』)。また、こうした旺盛な機業熱と活発な資金需要をみて、県外の大阪第百三十銀行支店のほかに三十二年、富山十二銀行も支店を開設する。県内でも中小の地場銀行が続々と設立され、枚挙にいとまがないかぎりであるが、将来、県内で主軸的役割を担う福井銀行も、県内地主層を網羅して、同年に創立をみる(『福井銀行八十年史』)。さて、新興機業の経営的な主役は、小地主層であるが、労働の主たる担い手は、小作農など零細農民の子女であった。かくして零細農民は、賃金収入を得て家計を支え、小地主はより安定的に蓄積基盤を固めることに成功する。この時期、全国的に資本主義と地主制が構造的な関連をもって確立するが、福井県レベルでも同様な経済体制が、明確な姿態をあらわにしたのである。
 もう一つの起点は、二十九年の河川法案の第九議会での可決である。今日、何気なく散策する足羽川の堤防、時に雄大の気にうたれることもある九頭竜川の大堤防、今日、見慣れている整然とうちつづく連続堤防は、それ以前にはなかったものである。以前は霞堤と称して、河川に沿った堤防は、随所で断ち切られて、無堤防個所がかなりあり、洪水時には一時、水を耕地に氾濫させて広大な遊水池とする。そして下流への洪水の惨害を避ける効果をねらったものであった。しかし九頭竜川下流の大低湿地水田では、常習的湛水による作物の冠水被害に苦しみ、連続堤防の構築による抜本的治水対策への要請は、切なるものがあった(福井県農林漁業問題研究会『坂井平野と稲作』)。従来、政府の河川対策は、舟運のための浚渫を主とした「低水工事」にのみ国費を投じ、連続的築堤による洪水防御に主眼をおく「高水工事」には国庫支弁はなかった。河川法は、これを転換し政府が認定する大河川に国費を投入し、「高水工事」推進への道を開いた。九頭竜・足羽・日野の三大河下流の県民にとって、頻発する洪水からの解放という悲願成就への道が開かれたのである。同時に、この三大河下流の坂井・吉田・足羽の三郡の平野は、まったく面目を一新して、福井県の穀倉たり得ることになった(図15の三郡の動向に注目)。三郡の農業生産力の安定的発展は、河川法成立に尽力した地主層の声望を高め、大地主層に安定した小作料を保障することに寄与したのである。
写真83 坪田仁兵衛

写真83 坪田仁兵衛

 坪田仁兵衛代議士は、利根川治水同盟会長の湯本義憲代議士らとともに、九頭竜川を含む全国一二の大河川の改修を緊急の国家事業として政府に建議しこれを可決する。これをうけて政府提案になる河川法が成立した(『県議会史』一、議員名鑑、資10 二―一九二)。二十九年着工の淀川・筑後川、三十一年着工の大井川・木曾川に続いて、三十三年には九頭竜川が庄川・利根川とともに着工の運びとなったのである(日本学士院『明治前日本土木史』、『県議会史』一)。かくして九頭竜川改修は、総事業費三八一万余円、うち国庫負担二七七万余円、福井県負担一〇三万余円で、明治三十三年度以降、一〇か年継続事業として着工される。着工前年の三十二年、福井県の歳出総額が、六五万余円であるから、膨大な事業規模のほどが知られる。しかし当初の改修区域が、九頭竜川では左岸吉田郡下志比村(永平寺町)・右岸坂井郡鳴鹿村(丸岡町)から下流河口まで、足羽川では右岸福井市豊島中町・左岸足羽郡木田村木田地方(福井市)から下流日野川合流点まで、日野川では右岸足羽郡東安居村角折(福井市)・左岸同村下市(福井市)から下流九頭竜川合流点までに限定される。巨費を投じた治水上の恩恵は、わずかに坂井・吉田・足羽の三郡と福井市に限られる。そこで、この恩典からはずされた奥越・丹南・嶺南の諸郡にも、均霑して治水・道路などの土木事業を県費負担で起こそうという、いわゆる権衡工事論が提起される。こうした世論を配慮して、三十三年、岩男三郎知事は、権衡工事一〇か年継続予算、五二万余円を県会に提案し可決をみたのである(『県議会史』二)。当時、県会議員三〇人のすべてが、憲政党に所属し、竹尾茂は、議席をもたなかったが、憲政党県支部長、福井県農工銀行頭取、県会土木派首領として県会に君臨、知事に大きな影響力をもっていた(『県議会史』議員名鑑)。しかし権衡工事予算の実態は、竹尾支部長の地元大野郡や、竹尾派議員の選挙区にかたより、苦情続出となった。また九頭竜川改修工事と権衡工事という二大プロジェクトを同時に実行することになって、三十三年度の県財政は異常な膨張をとげ、県債四二万円を含み県税負担も著増した。しかも、三十三年は生糸暴落・羽二重不況で県下は激しい恐慌に襲われ、県内産業界の金融的中枢であった九十二銀行は、甚大な打撃をこうむった。福井市内も、質屋の貸付の増加を除き一般商家の不振で「細民の生活以て察す可きなり、徒らに県費を濫増せし県会議員諸氏以て何等の感かある」と嘆かれた(『福井新聞』明33・12・27)。このような形勢は、県会内部に、権衡工事を廃止して県民負担を軽減しようとする動きが台頭し、県会勢力は二分される。ここに三十四年、知事として赴任した宗像政は、権衡工事の廃止を強引に進め、竹尾派の抵抗を排除してこれを実現した(『県議会史』二、資11 一―一六)。知事や反竹尾派、これを支持する世論は、全県に網羅した権衡工事も多くは小手先の部分改良にとどまって、実効に乏しく県費の濫費に帰し、県民負担の増大を招くのみだと断ずるのであった(『福井新聞』明34・11・16、27、12・4)。



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