吉田郡中藤島村灯明寺(福井市)では、二十九年の洪水で、稲が腐敗し四分作の惨状となった。地区の九割を占める小作人は、小作料の五割引下げを要求したが、地主側はこれを拒否し、財産を差し押えても定例の小作料を徴収することを決議し実行した。その際、新たな小作契約証を交付したが、そこに「豊凶に拘らず定例の年貢米を納むべし」と規定した。小作は、水損・干損を認めるのは古来の慣習だ、として地主側に対抗して運動費に米を積立てる形勢となったので、警官が出張して警戒にあたる事態となった(資10 一―三一二、三一三)。 この時期の米価高騰をめぐる不穏と小作争議の発生は、民衆生活の困窮の鋭い反映であった。県民の経済生活の起伏を伝える県下の郵便貯金の推移をみよう。表66によると二十六、二十七年と順調に伸びてきた預け高は、二十八年から減少に転じ、とくに三十、三十一年にかけて崩落的な激減を記録する。そして、その後の回復過程の弱々しさに注目したい。これに対して払戻高の方は、二十八年以後預け高を大幅に超えて増大する。とくに二十九年から三十一年にかけての、一〇万円を超える払戻超過は、この時期の県民の生活が貯蓄の食いつぶしによってかろうじて成り立っている点を写しだしている。また表67にみるように、三国町では町税滞納処分を決行しても税収がえられない、町税欠損者と救恤対象者の数が、二十七年から三十一年にかけて急増している。町税欠損の事由では、無財産・失踪・転退去・出寄留などがあげられる。零落町民の増大ぶりが知られるが、いずれも戸別割や営業割のごく零細な負担者であるが、これら欠損者の増大によって、町の財政が影響をうけることはなかったのである(「三国町歳入歳出精算書」)。しかし、この零落・失踪・転退去・出寄留の動向は、三国町に限らず、県下の町村に一般的にみられたと推察される。これを裏づけているような、この時期の北海道移住の増大である。表68によると北海道移住は、二十六年以後漸増しつつあり、年間四〇〇〇人前後を数えていたが、三十、三十一年には六〇〇〇人を超え五割の急増となった。この時期の県民の異常な窮状を物語るものであろう。
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表66 郵便貯金(明治24〜35年)

表67 三国町税滞納欠損者・救恤対象者(明治25〜36年)

表68 北海道移住(明治24〜35年)

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