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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    二 日清「戦後経営」
      水害復旧と県民の動向
 明治二十八年(一八九五)十一月、開会の県会は水害復旧を主とする空前の追加予算、約七〇万三〇〇〇余円を可決した。既決の二十八年度当初予算、約三二万九〇〇〇余円の二倍を超える。歳入には国庫補助金約四三万六五〇〇円、県債一六万六〇〇〇円、県税地租割・戸数割など九万二〇〇〇余円その他をあてている(『県議会史』一)。しかし審議のなかで、議員が「被害すこぶる重大で予算案の工費はむしろ少額に失するのではないか」と質問したのに対し、県官は「町村の被害稟申を県庁技師が吟味し、これをきりつめて政府に補助申請をしたが、山岳崩壊・道路破壊の分は、すべて補助対象から除かれた」と予算編成の実情を説明して、復旧予算が十分でないことを認めている(『福井日報』明28・12・3)。それにしても、かつて経験したことのない土木予算を、執行する態勢を整える必要があった。そこで二十九年一月、県庁内に臨時水害土木事務所が開設され、県内を四方面区・二八工区に分割して、出張所・派出所が設置されることになった(『県議会史』一、『福井日報』明29・1・8、10)。
 こうして復旧工事が開始されたが、工事は遅々として進まず、九頭竜川沿岸は二十九年四月早々、雪解けによる洪水に襲われる。昨年の水害復旧をみぬ間に、その傷口に再び水害をこうむったのである。吉田・坂井両郡下一七か村の村民は総出となり、四月十一日、六〇〇余人の集団が復旧工事の急施を請願して県庁へ向かい、警官に阻止されるという事件が発生した(『福井日報』明29・4・12)。さらに六月三十日以後九月七日の大水害にいたる間、六回もの水害が波状的に県下一円を襲う。人命や財産を奪われる災害が、全県をおおい復旧工事の遅れを痛憤する世論の声はひときわ高くなった。七月十六日の臨時県会では、県が約一万七〇〇〇円の土木費追加予算を提出すると、議員の間から「理事者の怠慢で、未着手の膨大な予算のうえに追加予算を重ね、どう工事を速成するつもりか」と詰問される事態となった(『福井日報』明29・4・29、5・26、7・3、17、明治二九年『福井県暴風雨水害景況』)。そして七月二十一日の洪水で、土壤決壊・耕地流出・道路破損・橋梁墜落などの大被害をうけた勝山町では、二十三日、にわかに町会を開いた。そこで今回の洪水被害は、復旧工事を遅らせた知事の失政であると断じ、傍聴する数百の町民が総立ちのなかで、知事不信任案が万雷の拍手をあびて可決された。さらに二十五日、内務大臣に知事更迭を求める請願書を採択した(『福井日報』明29・7・26、28、「勝山町会議事録」)。八月五日には、九頭竜川沿岸の町村長が勝山町に集まり、うち続く水害の善後策を協議して、県の復旧工事の怠慢と遅鈍をつぶさに指弾して、県へ工事の急施を求めることを決めたのである(『福井日報』明29・8・8)。
 水害復旧工事は、予算面からみても、工区の全県的な広がりから推しても、未曾有の難工事であった。県民から工事執行の遅れと、怠慢を指弾された県官・工手は、被害の調査から国庫補助の確保につとめ、県下に工区網と工費配分して、管理体勢を整え「勉強事に従う外」余念がなかったが「如何せん工事の個所過多なのと、種々の支障あり一般の満足がえられなかった」と弁明する(『福井日報』明29・7・16、17)。ただ復旧工事の遅れから、被害につぐ被害の追討ちをあび、土砂に埋没した田畑・水路を開墾し、失った家屋を再築した人びとが、二度、三度と家産を失うにいたって、世情は騒然となり、県会の内外で知事・県官を痛烈に批判・督励する次第となった。これらの県民の主体的運動こそ水害復興の推進力となるものであった。



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