そこで、連年の大水害について、表65を中心に検討してみよう。まず『明治二十八年七・八月福井県水害景況』によると、二十八年七月末から八月初旬にかけての水害は、梅雨末期の猛烈な降雨によって局地的に大被害をもたらすことになった。敦賀郡東浦村阿曽・大比田(敦賀市)、南条郡河野村大谷(河野村)、今庄村大鶴目(今庄町)などで山岳の崩壊と、河川洪水が同時に発生して大被害となった。この両郡で一三二人の人命を奪い、五二七の建物が流出あるいは破壊されている。県下の人命被害の九割、建物損亡の八割が両郡に集中したことを示している。金額でみても、両郡の被害は人口一人あたり二八円を超え、県民一人あたり平均被害金額九円五〇銭のほぼ三倍の大きさである。また足羽川と九頭竜川の氾濫によって、足羽・吉田・坂井の三郡と福井市は、高見からながめると天と水と分かち難く、洋々たる一大泥海と化したという。足羽・吉田の両郡は一人あたり被害金額で、県平均二倍弱になるが、大半は土地と農作物の被害で占められている。また大洪水のつねとして疫病も猛威をふるった。嶺北諸郡のなかでは、もっとも被害の少なかった丹生郡でも、八月一日から九月十五日のわずか一か月半の間に、コレラ病患者四九人、同死者三五人、赤痢病患者一〇三人、同死者二三人を数えている。洪水の直接的被害をはるかにこえる注目すべき事実といわねばなるまい(『敦賀市史』下、『河野村史』、本保区有文書)。
翌二十九年の大水害は、前年に被害をまぬがれた遠敷・大飯両郡にも波及して、全県下をおおい被害の規模も前年を上回るものとなった。八月三十一日午前四時前後、暴風雨は人家を倒し樹木を根こぎにし、船舶を破壊し、とくに若狭三郡の中小河川の水位を膨張させて一大水害をもたらした。そして一時落ち着くかにみえたが、九月五日以来、ほとんど間断なく豪雨が続き、七日の明け方から九頭竜・日野・足羽の三大河をはじめ全県の河川を、一挙に濁流の渦にかえてしまった。にもかかわらず人命の被害が、前年より少なかったのは、昼間の洪水で十分な防災・救助の活動が、可能であったためであった。被害総額において、前年を五〇パーセントも超える、この年の大水害の特徴は、足羽・吉田・坂井の三郡に、被害総額の五三パーセントが集中する低湿地被害の様相を示すものとなった。この点で三郡とくに足羽郡の、荒地率の異常な高さが注目される。吉田・坂井郡の耕地は、八日から一〇日で退水したのに、もっとも低湿で排水のわるい足羽郡では、退水に二〇日を要し農作物はほとんど腐敗したという。もう一つの特徴は、南条・今立の二郡の被害が、前年に引き続いて大きな点であった。この連年にわたる山間部の災害では、とくに堤塘・道路・橋梁など土功の損壊が甚大であった。とくに南条・今立二郡の、これら土功の損壊延長は、両年合計で県下の総損壊の五〇パーセントを超え、金額面でも三〇パーセントを超える。この事実は、やがて大きな政治問題を引き起こす。すなわち水害からの復旧過程で、九頭竜川改修工事が、足羽・吉田・坂井の平場三郡の期待にこたえ、国庫補助と県費を合わせ三八〇万円余の巨費を投じて実施段階に入ると、大野・今立・南条の山場三郡を中心に、県会に九頭竜川改修に見合う堤塘・道路・橋梁などの権衡工事案が提案され、その是非が県政の激しい争点になるのである。 |