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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    二 日清「戦後経営」
      「臥薪嘗胆」をせまる営業税
 軍備拡張を中心とする「戦後経営」の膨大な経費を賄うため、政府は第九議会に明治二十九年度第一次増税案を提出する。酒税増徴・葉煙草専売の創設など大衆課税の間接税に重点をおき、新たに営業税・登録税が創設され、三三五七万円の増収をはかるものであった。ほかに公債収入と賠償金繰入れなどを見込み、国家財政の規模は歳出で一億六八八五万円となり、戦前の明治二十六年(一八九三)の八四五八万円の二倍に増大した。歳出に占める軍事費の割合も、戦前の二七・〇パーセントから四三・四パーセントへはねあがり、財政軍事化の方向が定まった。この大増税計画に即応して国税徴収機構が確立する。県内では県知事が統括する収税署に代わって、大蔵省直轄の税務署が二十九年十一月、福井・三国・大野・武生・朝日・敦賀・三方・雲浜・高浜に置かれることになった(『明治財政史綱』、『明治大正財政詳覧』、資11 一―一一)。
 そして三十年二月以後、県内の各税務署が本格的な徴税業務を始めるようになると、各地で商工業者との間に、激しい紛争を引き起こすことになった。税務官が税法の規定を無視して家宅捜査まで行い、帳簿類を税務署へ持ち帰った、として福井市の皿沢松太郎(羽二重商)、中島宗十郎(時計商)、本庄栄政(機業家)、今立郡粟田部村(今立町)の重野五良兵衛(機業家)、その他各地の商工業者が、こもごも税務官の不法を訴える。坂井郡磯部村の横井善之助(機業家)は、営業税の届出書類を税務官が不当にも書きかえて本人不在中に留守番の者に強引に調印させたという。これらの騒ぎが広がり、ついに三月二十二日、会期中の第一〇議会に久保九兵衛、大針徳兵衛、竹尾茂ら県選出代議士が連名で「税務官違法処分ノ件」について質問書を提出する。その説明に立った久保九兵衛は、有名な東京の白木屋の営業税がわずか四五〇円にすぎないのに、福井市の松井文助(生糸商)の営業税は七〇〇円にも及ぶ。このあまりに不合理の根拠は、機業家への生糸販売が小売と認定され卸売業よりは三倍も高い小売業の税率が適用されたからだ、として税務官の不当な徴税を弾劾している(資11 一―一二)。
 営業税の最大の問題点は、営業の「収益」を基準にして課税するのではなく、営業する商工業の資本金・売上高・従業者数・土地建物賃貸価格などを「課税標準」として課税する点にあった。したがって、たとえ収益が赤字でも、課税標準が免税点を超える規模であれば、収益の動向は無視されて課税される。しかも営業者に資本金などの課税標準を申告させたところ、予定の収入を得ることが不可能であることが明白となった。そこで政府は全国の税務管理局と税務署を督励して「戦場にのぞむ覚悟」で、予定の税収をあげるよう訓令を発したという。福井県の場合、資本金五〇〇円に満たない機業家は製造業として免税点以下の営業者であるのに、これを羽二重販売という物品販売業と見立てて課税の対象としたり、卸売業であるはずの生糸商を小売業と見立てて無理な徴税をしようとするなど、さまざまな手段をもって商工業者を圧迫したのであった(資10 一―三一五、『若越自由新聞』明30・2・4、7)。
 また営業税額見積届書を提出した福井市のある業者は、税務署から突然呼び出され、届出税額を倍に訂正するようせまられたので、業者がその理由を尋ねると、署長はそれには答えず「戦後経営の為め国民の義務として」増額に応ずるよう求め「幾何か寄附」するつもりで「税吏たるの職責と面目」をたもたせよと述べ、賦課基準となる「売上高増加に不服なれば、……合計三人の従業者を十人とか八人とかに増加する」のも一法だと弁じたという。業者がこれに応じず、逆にこれまでの税務官の不当の処置に抗議すると「我は我が認定の職権」ありと威嚇したという。納税期限もせまった六月三日、今立郡では金銭貸付業への営業税賦課をめぐる対立から、ついに郡長と町村長が、税務署と交渉することになった。同じ日、福井商業会議所には県下の営業者の総代四三人が集まり、営業税法の不合理な点の是正と、不当な税額認定を強いられた場合、商業会議所が改善に尽力することなどが決議された(資10 一―三一六〜三一八)。



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