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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    二 日清「戦後経営」
      北陸線開通と旅団・両連隊の設置
 日清戦争は日本の大陸への軍事的膨張の発端となった。政府は三国干渉と遼東半島還付をいきどおる国民に「臥薪嘗胆」を呼びかけて、日清「戦後経営」を推進する。ロシアとの戦争に備える「戦後経営」の中核は、軍備の拡張であった。陸軍では、それまでの歩兵六個師団と近衛師団に、新たに歩兵六個師団と騎兵・砲兵各二個旅団の増設を決める。海軍では戦艦六隻・巡洋艦六隻を基幹とする近代的艦隊を創設しようとする。これをうけて金沢に歩兵第九師団が新設され、そのもとに敦賀第一八旅団が置かれ、敦賀に第一九連隊、鯖江に第三六連隊が駐屯する。そして、これら北陸における師団や連隊の新設の前提となったのが、北陸線の開通であった。
図14 鉄道線路図(明治26年3月末現在)

図14 鉄道線路図(明治26年3月末現在)

 明治二十四年(一八九一)、ペテルブルクとウラジオストクを結ぶ、壮大なシベリア鉄道が着工される。この衝撃的な事件に、ただちに反応を示したのは陸軍であった。川上参謀本部次長らは、松方首相・井上鉄道庁長官らとあわただしく会合を重ね「国防上の眼光を以て鉄道を観察し……現在の鉄道は到底、軍用に適せざるもの」と断ずる(『東京日日新聞』明24・9・22)。四面を海で囲まれた日本は、一朝外国と戦争になれば敵はいずこより上陸するかはかり知れない。この時、軍用鉄道がなければ、とても防御することはできない、として鉄道問題の抜本的検討を提起する(『東京日日新聞』明24・10・17、23)。翌二十五年、鉄道敷設法が成立するが、その第一条には「政府ハ帝国ニ必要ナル鉄道ヲ完成スル為、漸次予定線路ヲ調査シ、及敷設ス」とうたわれ、参謀本部次長の川上操六を議長に軍部・官僚・財界人を議員とする鉄道会議が組織された。要塞・師団・連隊などの拠点間を鉄道で連結しようとする、この軍事的配慮を最優先とした第一期予定六線に、敦賀・富山線も含まれることになった(『鉄道会議議事速記録』)。ロシアの極東進出が急を告げるなかで、日本海沿岸の戦略的価値が増大して、北陸線は奥羽線とともに二十六年、他の予定線に先立って着工される。その際、路線が海上からあざやかに露見する杉津(敦賀市)付近の改善と掩蔽が指摘されるなど、ロシア海軍の艦砲射撃への脅威と警戒こそ路線確定のポイントとなった(資10 二―一七八)。そして敦賀から工事が始まった北陸線は日清戦争を経て二十九年七月、福井・敦賀間が開通する。この北陸線の開通をまって三十年八月、今立郡神明村(鯖江市)に歩兵第三六連隊が愛知県守山から移り、翌三十一年三月には敦賀に歩兵第一九連隊が名古屋から移営を終了する(『歩兵第三十六聯隊史』、『歩兵第十九聯隊史』)。いわば北陸線という近代的輸送手段の整備をまって日清「戦後経営」の軍事的布石が、県内にもうたれることになったのである。
 ところで軍事的配慮を最優先とする北陸線から、はずされたのは三国町であった。三国町民を一丸とする北陸線誘致への猛烈なまきかえし運動は、鉄道会議議員の渋沢栄一ら経済人、渡辺洪基・斉藤修一郎ら県出身官僚の尽力もあって、三国経由の北陸線の路線再画定の宿願は、建議にまでこぎつけることができた。しかし運動は結実をみなかった。二十七年一月十七日の鉄道会議で建議はいちおう可決をみたが、路線決定に大きな影響力をもつ児玉源太郎・寺内正毅ら軍部は、こぞって鉄道が海上からの攻撃にさらされる危険を力説して建議に強い批判をあびせた。鉄道庁も既定路線を変更せずに工事を進めたのである(『鉄道会議議事速記録』)。そして三国町の鉄道誘引への熱望は、やがて金津・三国間の支線建設となって結実する。



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