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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    一 日清戦争
      戦争から講和へ県民意識の変転
 日清戦争が県民の国家意識にあたえた変化は、はかり知れない。すでに開戦当初の青壮年層の燃えるような従軍願望や、軍費献納については前述したが、県下の老若男女をいっきょにのみこんだ、巨大なナショナリズムの高揚したうねりは閑静な山あいの盆地にまで及んでいる。南条郡坂口村(武生市)通信は、つぎのように伝えている(『福井』明28・5・31)。
一、報国尽忠の志気を増長せしめたる事。
一、兵役を厭忌せし愚夫愚婦も、今は之を名誉として喜ふに至りし事。
一、支那朝鮮の地理を暗記する事。
一、新聞雑誌購読者の増加せる事。
一、曾て一丁字なき者迄も、不知不識の間に文字を覚えし事。
町村の民衆の間に広がった意識の変化は、一つには「軍国」の国民意識の新たな形成であり、二つには中国・朝鮮への視界の膨張主義的な拡大、というかたちを示したこと。三つには新聞がこれらの意識変化の大衆化を促す媒体の役割を果たしたこと、などを端的に述べている。
 明治二十八年(一八九五)四月十七日、下関で講和条約が調印され清国からの朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖島の割譲、賠償金三億円の支払、欧米なみの通商条約の締結などが約された。その六日後の二十三日、ロシアはフランス・ドイツの三国共同で遼東半島の返還を勧告し、ただちにロシア・ドイツ両艦隊は示威行動を開始した。政府はイギリス・アメリカの助力を期待したが成功せず、五月四日、三国に遼東半島放棄を通告し、八日には講和条約批准書の交換も終わった。この年の五月の県内は、いきづまるような緊迫した情勢のなかで、戦勝気分一杯の祝賀行事が各地で行われる。反面、遼東半島還付をいきどおる世論は、派手に「祝賀」を演出して三国干渉の「屈辱」を打ち消そうとする県や市町村の当局を批判する(『福井』明28・5・17社説「狂する勿れ」)。
 夫れ、遼東半島還付に関する詔勅を拝読しては、臣民たるもの誰か、叡慮の畏きに感泣嘘外字せざるものあらんや……今乃ち、宜しく謹慎以て叡慮の畏きに副へ奉るべき時に於て、山車を曳出し、烟火を打揚げ、歌舞音曲を催さんとす。民の之を為す、尚ほ禁ずべし。而かるを、民の上に立つものにして之を命じ、之を慫慂するは何ぞや。
このような新聞のキャンペーンに対し当局は激しい弾圧を加える(『福井』明28・5・26)。こうして日清講和の祝宴と三国干渉をめぐって、当局と世論は相拮抗しながら「臥薪嘗胆」のスローガンを共有して日清「戦後経営」下、日露戦争を準備する時代へ移行していく。



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