第七連隊と第一九連隊をしたがえる第六旅団は、八月二十八日以後名古屋の営舎を出発して広島県の宇品港へ向かった。九月四日から宇品港を出帆、九日以後、あいついで朝鮮の仁川に上陸した。以来兵站守備の任務につき、黄州・平壤・安州へと拠点を移しながら朝鮮半島を北上した。そして十一月二十三日結氷直前の鴨緑江を渡り清国安東県に入るが、この二か月あまりの間敵と相対することはまったくなかった。いかにも平穏にみえるが兵士にとっては慣れない航海のあと、ただちに険悪な道路と、きびしい残暑とたたかい、行軍しながらの困難な兵站勤務であった。戦線の後方で前線の戦闘部隊へ糧食・武器弾薬などを補給し、さらに後方との連絡路を確保する兵站任務は、沿道の村むらからの食糧と人馬の徴発に主力をおかざるをえなかった。ところが朝鮮の民衆の多くは山野にかくれ物資をかくして日本軍の命には応じなかった。それで糧食の徴発はままならず、兵士の常食も粟に小石まじりの朝鮮米を半ばほどを加えたものに梅干と味噌を添えた粗食とならざるをえない。しかも秋口までは焼くがごとき炎暑で飲料水は絶無にちかく水に渇き、異常な臭気と手のつけられない蝿の大群に悩まされる極悪な環境とあって、赤痢患者を続出させることになった(参謀本部『明治廿七八年日清戦史』二、八、『歩兵第十九聯隊史』、『福井』明27・11・20、28・3・7、資10 一―三〇六)。
第六旅団は十一月二十三日、鴨緑江を渡り安東県に駐屯し十二月一日にいたって、はじめて海城攻撃の命令をうける。三日に安東県を出発、寒風で凍てついた行路を遠く西北に進み、十二日にはすでに清国兵の退却した析木城に入る。そして翌十三日ついに海城を攻撃、城内に突入する。このはじめての戦闘は、寒風の吹きすさぶ雪のなかで戦われ足が凍って棒のごとく、その寒気のほどは敵弾が身辺をかすめるよりきびしい、と山形中尉は評している。その中尉は右耳と両足に全治一か月の凍傷を負ったのである。さらに十九日、未曾有の缸瓦寨の激戦では厳冬の夜間とあって、雪中の原野に広く点在する負傷兵の収容は困難をきわめた。必死なうめき声が収容を求めて遠く近くの寒空にこだまする光景は凄惨そのものであったという。創傷はただちに凍結し、重い凍傷に転化する。きびしい寒気が犠牲を大きくしたのである。その後、海城の守備にあたるが有力な清軍の重包囲に陥り翌年二月二十七日にいたる七〇余日間、反復五度の執拗な攻撃に耐える「海城難戦」を戦い清軍を撃退する。この間、寒威凛烈、往々凍死する者もあり凍傷で耳や鼻が水色に腫れあがり、手足の指先を切り落とす者あり、糧食は乏しく梅干の大小を争い粥の濃淡を論ずる状況にあったという。ようやく守勢から攻勢に転じて、三月五日牛荘を占領して、九日には日清戦争中の最後の激闘といわれる田庄台の戦いを制することになった(参謀本部『明治廿七八年日清戦史』四、五、『歩兵第十九聯隊史』、『福井』明28・3・6、8、9、12〜15、資10 一―三〇六)。 |