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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    一 日清戦争
      苦渋にみちた二つの行軍
 日清戦争の緒戦の勝利に県民が狂喜しているとき、日本陸軍が経験した痛ましい二つの行軍に注目しておきたい。その一つは、成歓・牙山の陸戦を準備する混成旅団三〇〇〇余の困難をきわめた行軍についてである。七月二十五日混成旅団は、ソウル周辺から成歓・牙山へ向けて行動を起こそうとして現地での食糧や人馬などの調達に苦しみ一歩も前進できない。それは朝鮮民衆の日本軍に対する敵意と非協力によるものであった。そこで非常手段をとりソウル近郊の要路をきびしい管理下において、通行する牛馬はすべて積荷と人夫ごと拿捕して行軍を強行しようとしたのである。ところが徴発した牛馬は一夜明けた二十六日の早朝、人夫ともども、すべて逃亡していて旅団は出発することができない。そこで、再び牛馬と人夫の徴発に辛酸をなめるが、
是日、力ヲ尽シテ集合シタル人馬ハ、往々逃亡ヲ謀リ、歩兵第二十一聯隊第三大隊ニ属スルモノノ如キハ、皆逃亡シテ、遂ニ翌日ノ出発ニ支障ヲ生シ、大隊長古志正綱、二十七日午前五時、責ヲ引キ自尽スルニ至レリ
ということとなった(参謀本部『明治廿七八年日清戦史』一)。作戦部隊の行動を根底から支える食糧を含めた軍需物資の確保と、その前送・補給など、いわゆる兵站は、朝鮮民衆の非協力にあい開戦直前から困難をきわめ、大隊長を自殺に追い込んでいたのである。この兵站の困難という問題は日清戦争の全過程にみられたのであった。そして兵站線を維持するという難問は、やがて越前出身の将兵が身をもって体験することになるのである。
写真78 軍人家族救助金調書

写真78 軍人家族救助金調書

 難渋する二つ目の行軍は、県民の歓呼に迎えられて県土を通過した金沢第七連隊の出陣行であった。越前の兵士を含む第七連隊は八月二十九日の午前六時三十分、祝砲のとどろくなかで金沢をあとにした。しかし北陸線はまだ米原・敦賀間までであったから、金沢・敦賀間一四〇キロメートルは炎暑をついての強行軍となった。第一日は小松、二日目は丸岡が宿泊地となっていた。ところが八月三十日、丸岡到着の多数の兵士が日射病などで倒れたのである。一人はその日のうちに病死、翌三十一日に葬送したが、なお多くの病兵のうち、さらに一人は九月一日になって同地で病没した。こうして思いもかけぬ苦難をかかえた行軍は、三十一日早朝丸岡を出発、つぎの宿営地武生へ向かう。しかし早朝の行軍に参加することができない病兵二〇人余は、同夜遅く車で丸岡から福井の軍用宿舎(縄谷平三郎方)に運ばれて止宿、翌朝さらに車で武生へ送られる。
写真79 軍用宿舎(縄谷平三郎)

写真79 軍用宿舎(縄谷平三郎)

 福井市では郷土出身の将兵が県都を通過するというので、全市をあげて歓送となった。ところが知事・市長から小学生にいたる全市民は、予想もしなかった「異変」を目撃することになった。それは二〇〇人を超える落伍兵の痛ましい姿であった。日射病に倒れる者、靴ずれの痛みに苦しみ一歩も進みえない者などである。そこで急ごしらえの看護所を市役所に設けて介護につとめることになった。市吏員や警察官は落伍兵の救護にあたったり、人力車や荷車を借りうけて兵士の搬送につとめるが、落伍兵があまりに多すぎて車がたりない。医者の自用車や大八車を捜しまわって夜明けまで輸送につとめることになった。こうして苦難の行軍は午後二時、武生町蓬莱にたどりついて、さらに一兵士が日射病で卒倒する。歓迎の人びとが、驚き、かけよって兵士を介抱し武生病院の医師も診療につとめたが、むなしく長逝した。第七連隊は翌九月一日の出発を見合わせ同町緑の久成寺で、ねんごろに葬送を営み、しばし休養をとり九月四日、敦賀へ向けて行軍を始めた。なお残暑のなかで武生から敦賀への行軍が、どのような経過をたどったかは、まったく不明である。新聞『福井』が第七連隊の行軍の記事で「軍事に関する違反」を問われ詳細を報道できなくなったからである。それにしても内地のしかも旅団管区の、金沢・武生間九五キロメートルの行軍で病死者三人、落伍兵二百数十人を出すにいたった理由は、一つは日射病であり、いま一つは大量落伍の主因とみられる靴ずれであった。福井市大名町の下足商が街頭に卓子を置き「わらじ」を山づみにして、靴ずれに悩む兵士に喜ばれた。当時、農民をはじめ一般の庶民は靴をはく習慣をもたなかったことから予備役・後備役の応召兵の多くが、靴ずれに苦しむのは当然のなりゆきであった。武生から敦賀にいたる春日野新道でも湯茶とならんで、この「わらじ」の供与は大いに喜ばれることになった。このような内地での行軍の実情からみても、県下の出征兵が戦時下の異国のきびしい風土のなかで強行される行軍の多難さを察することができる。多くの病死者を出すにいたった日清戦争の特質の予兆が、ここにあったのである(『福井』明27・8・30〜9・2、4)。



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