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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第一節 日清・日露戦争と「戦後経営」
    一 日清戦争
      開戦とナショナリズムの高揚
 日清戦争は、朝鮮での政治・経済・軍事上の覇権をかけた日清両国の戦争であった。しかも背景には、シベリア鉄道建設によって極東進出を急ぐロシアと、これを阻止しようとするイギリスの対抗が主軸となって極東全域に強い大国の磁場が形成され、その干渉が不断に予想されていた。開戦直前の、明治二十七年(一八九四)七月十六日、ロンドンで日英「条約改正」調印の日、英外相キンバーレーは日本政府に祝意を表明した(井上清『条約改正』)。
 此ノ条約ノ性質タル、日本ニトリテハ、清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ、寧ロハルカニスグレタルモノアリ。
すでに六月二日の政府の朝鮮への派兵決定、五日の大本営開設をうけて、続々とソウル付近に集結していた日本軍混成旅団は、牙山の清軍を威嚇しソウル王宮を圧していたが、ついに七月二十三日、軍事行動を開始した。すなわち二十三日未明、朝鮮王宮に進入した日本軍は朝鮮国軍と戦い王宮を占領、ただちに親日政権を樹立した。同じ二十三日、連合艦隊は佐世保軍港を出撃して黄海に直行、翌々二十五日には豊島沖海戦で清国艦隊に先制攻撃をあびせた。また混成旅団は、同二十五日、ソウル周辺から牙山の清軍を求めて南下、二十九日成歓を、三十日には牙山を占領した。これら電光石火、周到に準備された日本陸海軍の果敢な行動と緒戦の大勝利であった。そして、この勝報が県内に伝えられるのと前後して八月一日、宣戦布告が発せられる。まことに絶好のタイミングで、県内は「勝利」にわきかえった。
図13 日清戦争関係地図

図13 日清戦争関係地図

こうして熱しきった雰囲気のなかで、県下の予備・後備役召集令は、まず八月四日午前十時半、第三師団から県庁に電報で伝えられた。県庁では、ただちにこれを市町村へ知らせる。各警察署では巡査が総動員で、これを各戸へ急報する。福井市では一三〇人余の召集兵のうち、出発の早いものは即日の午後六時頃から名古屋と金沢の兵営へ向かった。北のはずれにあたる荒町と、南のはずれの赤坂は、四日から五日にかけて各町内の見送り人でにぎわい、市長・助役らの吏員も両所へ出張して壮行につとめた。武生町では戸ごとに日章旗を掲げるなかを五日午前六時、出征兵四〇人余は、勇壮な軍歌をうたいながら出発した。郡役所・警察署・町役場はいずれも高張提灯を出して徹夜で執務するなど、人心の興奮は、さながら戒厳令下のごとくであった。大野町では六日早朝、数千人が花山峠まで見送り「祝応徴軍諸君発途」と大書した大旗を押し立て、大樽の鏡をぬいて応召兵の門出を祝った(資10 一―三〇一、三〇二、『福井』明27・8・8)。
 二十七年八月の県下は「軍国」の熱気のもえる、まことに「熱い夏」となった。緒戦の大勝、宣戦の大詔が「撃てや懲らせ」と敵愾心をあおり、身近な応召兵の出陣もまた人びとの興奮を地鳴りのように広げた。「軍国の民」の国家意識は、かつてない高まりを示したのである。八月三日、福井市高田別院裏の足羽河原では、従軍を切願する「報国会」の会員が一六〇人余も集まった。すでに従軍願は却下されていたが、熱情やみがたく、あえて従軍再願を申し合わせ、さらに同志をつのって「陸海軍万歳」を三唱して気勢をあげた。この従軍再願署名者は七日には三〇〇人を超える勢いとなった。なかには自費で無報酬の人夫でもよい、と訴える者まであらわれるにいたった。この動きは県内の青年層に大波のように広がり、とどまることを知らぬありさまとなった。これに対して福井県は八月十三日に「義勇兵ニ関スル詔勅服膺方」(諭告第一号)を発する。
 各地ノ臣民、義勇兵ヲ団結スルノ挙アルハ、其ノ忠良愛国ノ至情ニ出ルモ、国ニ常制アリ、民ニ常業アリ、非常徴発ノ場合ヲ除クノ外、臣民各々其ノ常業ヲ勤ムルコトヲ怠ラス、内ニハ益々生殖ヲ進メ、以テ富強ノ源ヲ培フヘク、義勇兵ノ如キハ現今其ノ必要ナキ旨……各自眷々服膺ス可シ
こうして県は、わきおこる従軍への熱望を鎮めることにつとめたのであった(『福井』明27・8・8、15、資10 一―三〇四、三〇五)。
 また県内各地で軍資献金や物品献納と軍人家族救恤の動きも広まった。小浜町では若州協和会が「献納物品募集」と書かれた大旗を押し立て各戸をまわり梅干の拠出を求めたが、これも各地で大流行となった。武生町では、たちまちにして四斗樽で二五樽もの梅干を集めて献納した。各地の青年たちの動きも活発であった。福井市の青年会は夏期大会を開き満場一致をもって、在韓軍へ白木綿一五反の送達を託した。丹生郡織田村の青年有志は修学勁精会を設けて夜学に励んでいたが、陸海軍の武勲に刺激をうけて、一つの義勇団体をつくり軍資献金を決め、さらに許可をまって従軍出願をも決議した。足羽郡東郷村(福井市)の若連中は村役場に願い出て村道入札工事を請負い、その賃金をことごとく献納することとして貧富を問わず砂利盛りを始めている。勝山町の機業職工一同は集会して、毎日午前五時から午後十時まで就業、この一七時間は食事休憩の一五分のほかは一心に働き、賃銭の二割を献金することを決めている(資10 一―三〇三、『福井』明27・8・5、7、9・4、12)。



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