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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    五 衛生行政とコレラ
      コレラとの戦い
 明治政府の衛生政策の推進にとって最大の脅威となったのはコレラの流行であった。コレラは明治になって十年、十二年、十五年、十八年、十九年、二十八年とたびたび全国的に流行しており、とくに明治十二年(一八七九)と十九年の流行は激しく、全国患者数はそれぞれ約一六万二六〇〇人、一五万五〇〇〇人を数え、死亡者数は両年とも一〇万五〇〇〇人を超えた。
図12 福井県の法定伝染病患者数(明治12〜大正1年)

図12 福井県の法定伝染病患者数(明治12〜大正1年)

 図12は、明治期の福井県の法定伝染病の患者数を示すものである。一見して明らかなように、十二年と十九年の患者数が、突出して多くなっている。とくに十九年は県下で六六六三人のコレラ患者が出、これは当時の本県の人口約六〇万人の一パーセントにもあたった。この年のコレラは、五月二十九日に三方郡で最初の患者が発生して以後、夏にかけて急速に県内各地に伝播し、十一月の終息時には足羽・坂井・大野・丹生郡で一〇〇〇人を超える患者が出ていた(表64)。県はこの流行に対処するため、県庁内に検疫事務所を置き、県境や港などの交通の要地には検疫事務出張所を設けて検疫体制を整えるとともに、八月にはとくに流行の激しかった福井不動町、丹生郡鮎川・清水谷・蒲生・茱崎浦の交通を遮断した。そのほか、人びとの群集する劇場・寄席などの興行禁止などの処置もとられた。

表64 郡別コレラ患者数累計(明治19年)

表64 郡別コレラ患者数累計(明治19年)
 コレラがこれほどまでに流行した背景としては、人びとの間に衛生思想が十分に浸透しておらず神仏祈願や民間療法が広く行われていたこと、生活用水として利用されていた河川水が患者の嘔吐物の投棄によって汚染されたことなどがあげられる。しかし、当時の衛生行政にも問題があった。福井県は、十五年、コレラの発生に備えて「虎列刺病予防方仮手続」(甲第四九号)を制定し、患者は原則として避病院または仮病室に収容すること、患者の発生した家の交通を遮断すること、汚染源の消毒を行うこと、患者・死者・汚物の搬送時には「コレラ」と記した布を掲げることなどを定めた。そして、この「仮手続」には警察官吏心得についての条文があり、右の措置はすべて警察官の指揮のもとに実施されることになっていたのである。この警察権力に大きく依存した伝染病対策は、政府の衛生政策の基本でもあった。しかし、この政策は警察官に対して恐怖心をもつ一般民衆の忌避するところとなり、それは避病院における死亡者の多さとも結びついて伝染病患者の隠匿となって現われたのである。
 十二年のコレラ流行に際して全国各地で起こったコレラ騒動は、このような政府の衛生政策の矛盾をついたものであった。騒動では人びとは避病院の建設反対、果実・魚介類の販売禁止措置の撤回、患者の避病院収容反対などを唱えた。当時はコレラ発生の原因はわかっておらず、したがって治療法も確立していなかったため、人びとは医師や検疫委員・警察官らの処置に疑念を抱いたのである。しかし、その背後には米価高騰や生物販売禁止などによって、人びとの生活が追いつめられていたこともみのがせない。
 福井県でも十二年八月六日、丹生郡梅浦で住民が検疫所に乱入する事件が起きている。これは死者のあまりの多さに住民が、医師の検疫処置に疑惑を抱いたことが直接の原因であったが(『越前町史』下)、漁業を生業とする住民の生活が追いつめられていたことも原因の一つと考えられる。すなわち、暴動発生の前日に、敦賀港から警察官の指示により同港において甲楽城浦から小樟浦までの浦でとれた魚の売買を停止する旨の書面が届いていたのである。これは漁民にとって死活問題であり、ここに漁民の不満が爆発したのである(木下伝右衛門家文書)。 「富国強兵」の基礎である国民の健康を保持することは政府に課せられた重要な課題であった。それは政府にとって国民を衛生面で「開化」させることであった。その方針は、コレラのような急性伝染病の流行時に警察官による強制というかたちで集中的に現われたのである。当然、このような強権的な衛生政策に対しては民衆の強い反発があった。その積極的な表現がコレラ騒動であり、消極的な表現が患者の隠匿であった。警察権力に依存した強権的な日本の衛生政策の基本は、以後長く続くことになる。



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