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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    四 松方デフレの諸相
      貧民の救済
 明治七年(一八七四)の「恤救規則」にある「済貧恤窮ハ人民相互ノ情誼ニ因テ」行うとする原則は、松方デフレ期にも貫かれていた。福井県でも十六年八月に「恤救取扱心得書」(丙第八二号)を郡役所などに布達し、「老幼廃疾疾病」に名を借りた貧民救助を禁じている。したがって、松方デフレ期の貧民救済も原則的には地域有力者の金品の施与に頼るしかなかったのである。
 しかし、松方デフレによる広範な貧民の出現には県もその対策を施さざるをえなかった。十八年三月の通常県会では、敦賀・武生間の春日野新道開鑿事業が可決されるが、そこでは失業者に仕事をあたえることと金融閉塞状況の打開策としての効果が議論されていた。県はこの事業の執行にあたり、七月二十五日の県戊第六号により、各郡へ車道開鑿使役人夫数を割り当て、また、人夫の賃銭は一等一七銭から一〇等五銭としていた。福井の常盤木町ほか二二か町村戸長役場の八月の割当は約七〇人であったところへ、七〇〇人以上の希望者が殺到するという状況であった(『福井新聞』明18・8・6)。
 総工費二〇万円以上にのぼるこの工事は、十八年九月から二十年五月にかけて行われた。敦賀・武生間が九区分され、のべ数十万人の人夫が使役される大工事であり、現代的にいえば有効需要の創出をねらったものであった(『福井新聞』明19・10・17)。
 十八年夏の福井の米価高騰による貧民の不穏状況も、秋の米収穫が危惧されたほどの不作ではなかったこともあり、十一月には一俵二円一〇銭にまで低落し、やや落着きをみせていた。しかし、商況は上向かず、日雇稼ぎ人などの細民層の失業状態は依然回復のきざしをみせなかった。十九年三月には勝見地区で有志の拠金により、貧民使役の道路工事が行われていたが、また、同月には福井全市での貧民救済を目的とした土木工事を行うことが有志の間で計画された。士族、商工人など約六〇人が首唱者となり、本部を竟成社に置き、林藤五郎、伊藤真、市橋保身の三人の旧福井藩士族が本部委員に選出され募金活動が開始された。林は『福井新聞』紙上に「慈善金を醵して貧民を就業せしむるの鄙意」を寄稿し、寄付金への応募を呼びかけた。募金は思うように集まらなかったようではあるが、なかには四人で一五〇円を寄付する者もあり、六月には橋南の赤坂より総木戸までの街道が、七月には元神明前通りお泉水町の口より元角櫓前までの道路工事と荒川の中島堤防の改築工事が貧民を使役して開始された。中島堤防六五〇間の改築がもっとも大規模であり、堤防委員・勘定方・総掛が決められ、「就産の貧民は子の如く集りて」と報じられている。また神明前通りでは日々六〇〜七〇人が工事に従事し、使役貧民に対し勝木写真館が昼飯を、原田喜四郎が草鞋を提供していたが、これらの土木工事は九月にはほぼ終了している(『福井新聞』明19・6・20、7・4、9・8)。
写真76 勝木写真真館

写真76 勝木写真真館

 このように十八年の米価高騰にともなう福井の貧民救済は、士族が主導した民間有力者によって行われたのである。それは五年後のいわゆる企業勃興期後にきた明治二十三年恐慌下の米価高騰にともなう福井市の貧民救済が、有力商人や機業家などが中心になって行われたのと明確な相違をみせる(中島嘉文「福井県における一八九〇年の米騒動と貧民救済策の展開」『福井県史研究』一一)。すなわち、松方デフレとそれに続く企業勃興期は、福井市において名望家といわれる地域秩序形成者の交替をせまっていたのである。



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