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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    五 衛生行政とコレラ
      衛生行政の開始
 明治政府は発足当初から西欧文明の摂取につとめたが、それは衛生についても例外ではなく、西洋医学にもとづく医療・衛生制度の確立を急いだ。明治四年(一八七一)の岩倉遣欧使節では、のちに内務省衛生局長となる長与専斎を随行させ、西欧の衛生制度を視察させた。長与は帰国後「医制」の創案に尽力し、その結果、「医制」は衛生行政機構と西洋医学にもとづく医学教育の確立などを目的として、七年八月に発布された。これは東京・大阪・京都に限って施行されたものであるが、これによって明治政府による衛生行政が開始された。
 衛生行政は、当初文部省の所管であったが、八年六月内務省に移管され、同省内の第七局(のち衛生局)が取り扱った。そして、同年八月、内務省は府県に対して、従来府県管内において適宜施行されていた衛生に関する事項を今後はすべて内務省に伺い出ることを達し、翌年には府県の現状視察のため掛官の派遣を決定、さらに十一年には各府県に衛生事務担当吏員の設置を指令して、統一した衛生行政の確立に乗り出していく。
 敦賀県では、六年十一月段階で庶務課内に医業掛が置かれており、同掛は八年四月に学務課に付属した。また九年一月には、「医制」を範としたものと考えられるが、管内医員の投票による医務取締を大区ごとに置き、区内の医員・歯科医・産婆などを統轄させた。また、同時に薬舗と売薬者を管理する薬品取締も置かれた。医務取締は、石川県と滋賀県とに分属したあとも存続し、石川県の場合、医務取締は医師だけでなく薬舗の取締りも担当していた。
写真77 武生病院

写真77 武生病院

 こうして緒についたばかりの衛生行政を進展させたのは、コレラの流行であった。急性伝染病であるコレラは、明治期に何回かの流行をみせており、なかでも十二年の流行は、全国で一六万人を超える患者を出す惨事になった。このように感染力が強く、死亡率が高い伝染病の流行は、富国強兵策を推進する明治政府に強い危機感を抱かせた。十二年のコレラ流行を経験した政府は、同年末、全国衛生事務に関する諸件を審議する機関として中央衛生会を設置すること、衛生上に関する布告・布達などを審議する機関として府県に地方衛生会を設置すること、各府県に衛生課を置くこと、町村に公選の衛生委員を置くことを布達した。
 このうち、直接人民に接して衛生事務の実施にあたるのは町村衛生委員であった。十四年に新置された福井県は、同年に「町村衛生委員選挙法」(甲第五五号)で、町村住民によって満二〇歳以上の男子でその町村に一年以上居住する者のなかから衛生委員を選挙することと規定した。この衛生委員の設置は、地方名望家の協力のもとに衛生思想を国民に浸透させることを意図したと考えられる。その職務は、選挙法に続いて出された「町村衛生委員事務取扱手続」によると、毎月の出産・流産の取調べから、道路・溝渠や公共施設の掃除・改良、伝染病予防、食品衛生、埋火葬場に関することにいたるまで、きわめて多岐にわたっていた。福井県の町村衛生委員は、十四年末現在で一九七八町村に一七四三人が配置された(『福井県衛生第一年報』)。
 なお、十七年の連合戸長制に対応して、翌十八年一月には、衛生委員は、町村会議員の投票によって選ばれた者のなかから、県令が任命することに改められた。そして八月には衛生委員そのものが廃止され、その事務は戸長に引き継がれていくことになる。



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