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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    四 松方デフレの諸相
      福井の明治十八年米騒動
 明治十六年(一八八三)後半には、金沢の売家は「三千余軒」であるが、福井は「百軒はあるまい」として、まだ「不景気中の景気とも申すべきか」と『福井新聞』(明16・10・16)に報じられていた福井市街も、十八年に入ると公売処分がふえるなど不景気が色濃くなっていた。また、同年春よりの気候不順が秋の不作を予想させ、図10にみられるように十七年末には一俵一円七〇銭であった米価を、十八年七月には二円七〇銭にまで押し上げていた。職人の賃金が漸減するなかでの米価上昇は、米商などによる米買占めをもたらし、市中は食糧危機の様相を帯びてきていた。
 市中では「乞食」が徘徊し、住家へ押し入り衣食や宿泊を強要する「合力」が横行し、また、同年春よりは、食糧危機への不安感から福井をはじめ敦賀・坂井港・丸岡・大野・勝山などで五穀が降るといううわさが人びとの間に広がり、社会不安を増幅させていた。一方では、屯田兵としてあるいは新しい仕事を求めて北海道へ移住する人びとも増加し、福井の屯田兵志願者は約八〇人、坂井港からの移住者五、六〇〇人と報じられている(『福井新聞』明18・4・2、5)。『帝国統計年鑑』によれば十八年の福井県の北海道移住者は一二五戸・四七八人である。この統計は、福井県も同年四月には移住者に対するきびしい適格条件を布達していることからも推測できるが、あくまでも政府が把握した移住者数である(丙第四七号)。実際には、『福井新聞』が報じるように、正式な手続きをふまずに夜逃げ同然のかたちで福井を離れるものも多数いたと思われ、十八年の北海道移住者の実数は『帝国統計年鑑』の数値の数倍に達していたと推定できよう。
 こうした福井の困窮状況をいっそう激しいものにしたのが、十八年六月末から七月初めの豪雨による大洪水であった。足羽川、九頭竜川の堤防は各所で決壊し、福井市街は一面の泥海と化した。また、この時の洪水は県下全域におよび、田畑の作物被害は三〇〇〇町歩を超え、被害総額は約五四万円にのぼった(『県統計書』)。そのため七月には米価は高騰し小売では三円を超え、その販売価格にも米商により格差があったため、福井市街は米騒動といえる状況が発生した。同月下旬には「若者連」が数十人で連日のように市内の各米商をまわり、米の安売りと同一米価を強要していた。さらに、七月下旬になるとこの動きは拡大し、細民たちが数百人ずつ市内各所に集合し、米の安売りを求めて米商へ押しかけるようになっていた。元東御堂町の米屋には、細民二〇〇人余が押しかけ、建物の破壊が始まり、拍子木が打ち鳴らされ周辺は大混乱に陥っていた。こうしたなか極貧者には飢餓がせまっていた。『福井新聞』(明18・8・1、2)は、米の手に入らない孤独な老人の縊死や病身夫婦の餓死を小さな記事で掲載していた。
 これに対して県も七月二十四日の諭第一三号で、米価高騰を利用して「細民ノ困弊ヲ顧ミス、米商ヲ始メ穀類ヲ貯蔵スル巨商豪農等ノ間」で売り惜しみがなされ、そのうえ県下の米在庫量も少ないのに他府県へ移出する商人もいるようであるが、目下は「細民ニ便宜」をあたえることを最優先するよう布達していた。また、足羽吉田郡役所も米商を呼び寄せ、同一米価によって小売することの請書を提出させていた。米商人たちも、各町内ごとに合同の小売所を設けて同一米価での販売を行い、また貧民への安売りなどにより騒ぎの鎮静化をはかった(『福井新聞』明18・7・26、8・1)。



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