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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    四 松方デフレの諸相
      坂井港の不景気
 松方デフレ政策の基幹をなす紙幣整理は、金融閉塞の状況をもたらし、商工活動を停滞させた。県下各国立銀行の割引手形貸出残高は、明治十四年(一八八一)末の六万九〇〇〇余円が十七年末には一万円に、さらに翌十八年末には三〇〇〇円にまで落ち込んでいた。また、県下の各種市場の売買高も十六年の四一万余円が、十九年は四割減少し二四万余円となっていた(資17 第530表、『県統計書』)。
 デフレの影響は十六年に入ると、嶺北における物資流通の一拠点である坂井港(三国)において顕著に現われはじめ、福井など全県下の町部にも及び商工層や細民に大きな打撃をあたえたのである。
 坂井港では、十三年十二月に総工費約一一万円(うち私費約八万円)の波止堤沈床工事が竣工していたが、工費回収をはかるための港銭取立所の収入も計画どおりには進まなかった。また、約五万円にのぼる修補工事が不可欠となり着手したが、民費の負担に堪え切れずに十四年八月には工事免許を政府へ返上していた。そこへ不景気が追打ちをかけるようなかたちで到来し、内田周平(惣右衛門)、橋本利助、津田徳平の三有力商人の負債額は二〇万円を超え、十六年末にはともに店を閉じる事態となった(『県史』三 県治時代、『三国町史料』町内記録)。内田惣右衛門は、南越会社(貸金)、共同運輸会社(物貨運送)などの社長もしており、三有力商人の閉店は坂井港の経済に大きな影響をあたえた。その状況を『福井新聞』(明16・12・27)は、「市街は内田津田橋本三家閉店以来は不景気に不景気を加へ……此寂寥の景況なれは」と伝えている。この不景気は坂井港を覆いつくし、龍翔小学校の教員給料の削減や授業料の徴収という事態を招き、さらに十八年に入ると貧民救済のための施米や貸米が行われるにいたった(『福井新聞』明16・12・27、17・3・13、18・2・26、4・16)。
 



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