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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    四 松方デフレの諸相
      士族の窮乏
 福井県の士族は、敦賀県であった明治六年(一八七三)の戸数六八六七、人口二万九七〇三人が、十五年の現住人口は約六〇〇〇人減少し、戸数五三二八、人口二万三六四四人になっていた(『敦賀県治一覧表』、『県統計書』)。廃藩置県以後、彼らの一部は教師や巡査・県官などの官途に職を求めていたが、残りの多くの士族にとっては、新しい生業の途を見出すことを余儀なくされていた。
 九年九月の金禄公債発行条例により秩禄制度は全廃され、金禄公債が一時支給されるが、十年末から十一年にかけて県下に創設された四つの国立銀行もこの金禄公債を資本にしたものであった。十四年の時点で、表62のように、県下には二〇の士族就産のための会社(四国立銀行を含む)があったが、六年創設の大野の良休社などを除くと多くは十年以降に創設されたものであった。また、二〇のうち金融関係が一一と過半を占めており、このほか規模が比較的大きなものとしては、福井の交同社・織工会社と勝山、小浜の製糸会社などがあった。

表62 士族就産起業(明治14年)

表62 士族就産起業(明治14年)
 旧福井藩士である毛受洪、千本久信などは、十三年の国会開設請願運動への参加を杉田仙十郎から求められた時、福井の士族は「起業営生ノ目途ヲ立」て「自主独立ノ身分」になることが先決だとして署名を断っている(杉田定一家文書)。また十五年五月、福井県を巡察した安場保和参事院議官はその復命書に「福井県下士族ハ近来大ニ奮起スル処アルニヤ、協心結社シテ事ヲ起シ、其生活ヲ裕セント謀ルモノ不尠」と記している(『明治十五年十六年地方巡察使復命書』上)。そこからは十年代前半における旧福井藩士族を中心とした福井県士族の生業確立への強い意欲がうかがわれる。しかし、松方デフレが本格化すると士族が設立した多くの会社は営業が困難となっていき、十七年には福井の織工会社や小浜の製糸会社など四つの会社が、政府から創業資金や運転資金の無利子貸下げをうけていた(表63)。

表63 士族授産金の貸下げ

表63 士族授産金の貸下げ
 このように生業の基盤が確立していない県下の多数の士族にとっては、松方デフレの打撃は大きく、生活は困窮していった。十八年六月三十日の『福井新聞』は、福井の橋南の困窮士族は同盟して、家屋・倉庫・地面などを売却し、長屋を新築してそこに住むことを計画していると報じている。また、同年八月には福井の竟成社が経営の大改革をせまられ、翌十九年三月には丸岡銀行が破産している(『福井新聞』明18・8・11、19・3・18)。この松方デフレが士族層にどの程度の打撃をあたえたかをうかがうことのできる記事を十八年八月二十九日の『朝野新聞』が掲載している。その記事には、制度取調局の破産法取調委員が調査した各府県の「士族破産」者数があげられており、北陸三県では富山県一一三四人、石川県一〇九〇人に対して、福井県は二〇六二人と報じられている。この数は、十五年の福井県の現住士族人口二万三六四四人の八・七パーセントにあたる。さらに同紙は、福井県士族の困窮状況をつぎのように伝えている(『朝野新聞』明19・1・31)。近年士族の困難を極めたるハ何方も同一なるが、頃日福井県よりの通信を見るに、目下同県士族の困難ハ殊に甚だしく、現に旧藩の比にハ随分重職を帯び、威権のありし者にてさへ乞食となりて哀を人の門前に乞ひ、其妻女たる者等ハ言ふ可からざるの醜業をなして僅に露命を繋ぐあり、時勢の変遷とハ云ひながら実に見るに忍びざる惨状なりといへり
 このように福井県下の士族は、松方デフレによって非常な窮乏に追い込まれていった。また、二十三年の『県統計書』には、国立銀行や小浜、勝山の製糸会社のほか福井の竟成社、交同社、起業社などの社名しか記載されておらず、この松方デフレ期に多くの士族就産のための会社が消滅していったのである。



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