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第一章 近代福井の夜明け 第五節 明治前期の教育・社会 三 近代学校の普及

師範学校の発展

 

 明治十四年(一八八一)二月の福井県設置にともない、同年三月に分属時代の石川県福井小学師範学校は福井県立福井小学師範学校として、また滋賀県小浜伝習学校は同年十二月に福井県立小浜小学師範学校として発足した。小浜小学師範学校は従来の福井師範学校だけでは教員養成上完全ではないという理由で、給費生二五人、私費生一五人、校長心得に東京師範学校卒業生篠原行を任じた。一方、福井女子師範学校は生徒数が七月前後に一〇余人に落ち込んだことにより八月に廃止された。また以前設置されていた「師範学生ニ必要ナル実地練習部」の再設置が課題とされ、これを欠くことは「医生ニ臨床講義ノ設ナキ」と同様と論じられていたが、附属小学校の設置は十八年まで待たねばならなかった(『文部省年報』)。

 十五年には、校長に福井では田口虎之助(福井県士族)、小浜では小松利済(青森県士族)を任じた。小学校教員数が小学校一校につき訓導〇.五四人、准訓導〇.三三人、授業生または助手一.四〇人という現状から、教員養成の急務が指摘されている。同年八月には「小学教員免許状授与規則」が制定された。これは、師範学校の卒業証書を有しない教員に対し、試験によって免許状を授与するものであった。同年九月には学務官吏や福井・小浜の師範学校長が各郡へ派遣され、学力検定試験を実施し、翌十六年になると四月と九月に小学教員学力検定試験が実施された(『文部省年報』)。

 『福井新聞』の社説「小学教員ノ験定」には、十五年九月から十月にかけて実施された小学校教員の学力試験について論じられている。そこでは県下の小学校数八〇〇余校に対して受験者が三〇〇余人しかいなかったことに疑問を呈し、小学師範学科卒業証書をもたない教員は、資格を身につけるべきことが述べられている。また、丹生郡の小学教員学力検定試験は、志願者九〇余人で落第五〇余人と報じられている。翌年三月の社説では、「教育ハ自由ノ厳父ナリ知識ノ慈母」であり教育がなければ「天賦ノ自由」を伸ばすことができないと主張され、小学校教育の重要性を指摘し、教育費減額を批判しその増額を県会議員に要望している。また、八回にわたる社説「小学教師ノ大任」では、小学校教員の重要性と待遇の改善が主張されている(『福井新聞』明15.10.25、11.18、16.3.18、20、21、9.23、25、26、28~30、10.2、3)。

 十五年から十八年までの教員数をみると(表56)、正規の教員である訓導数の割合が三割弱程度であった。郡別に特徴をみると、訓導の割合が高いのは若狭三郡(三方・遠敷・大飯)と大野・敦賀郡であり、一校あたりの教員数は足羽・敦賀郡が多い(表57)。十六年の福井・小浜の両師範学校の教員は七月制定の「師範学校通則」の基準からいって教員資格が不十分であり、規準に適合する教員を招き、規模の拡張が緊急の課題となった。また「教員改良法」として九月に各郡一八か所で教員講習会を開き、授業法を伝習した(『文部省年報』)。十九年四月の師範学校令(勅令)第三条に尋常師範学校は府県一校と決められたことにより、同年七月に小浜師範学校は廃止され、翌八月には福井県師範学校に一本化された。

表56 小学校教員数(明治15~18年)

表56 小学校教員数(明治15~18年

表57 郡別小学校教員数(明治16年)

表57 郡別小学校教員数(明治16年)

 さて、教員が授業改善のために開いた教育会の動向を各年度の『文部省年報』によってみると、十四年には大野郡において授業法を研磨し、教育について講究論議するものが二つあった。十五年にはさらに進展し、公費で維持されている教育会が丹生郡に一つあり、遠敷郡でも設立準備がなされていること、十六年には公費による教育会が増加し丹生・遠敷・南条・今立・坂井の各郡に一つずつ年二回開かれ、会員は小学教員職員と学務委員等で討議内容は学校管理法や授業法等についてであった。私費の教育会は足羽・吉田郡に二つ、大野郡に二つであった。このように、教員・学務委員が独自に集まり、学校管理や授業法などを精力的に議論していることは、教育の改善にとって大きな意味をもったと考えられる。


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