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第一章 近代福井の夜明け 第五節 明治前期の教育・社会 三 近代学校の普及

自由民権運動と教育

 

 明治十年代の教育政策とその実態を考える時、自由民権運動が教育にあたえた影響を無視することはできない。民権家の自由教育論の主張や学舎・義塾での政治教育の実態、さらにはかなりの教師が民権運動に参加した事実など、近代日本の教育のありかたに問題提起をしたと考えられる(片桐芳雄『自由民権期教育史研究』)。全国的にも著名な福井県の民権家杉田定一とその父仙十郎の経歴と学習活動を通じた彼らの主体形成のプロセスには注目すべきものがあり、さらには学習結社自郷学舎の教育史上の意義は大きい。また、最近発掘された自郷学舎生徒の書籍・筆記帳では政治学習のようすがうかがわれ興味深い(森透「自由民権運動の教育史的意義」『日本教育史研究』)。武生の『慷慨新誌』は民権運動に参加した青年たちが中心的に発行したもので、教育をめぐる議論も展開されていた。

写真74 『慷慨新誌』

写真74 『慷慨新誌』

 福井県において、教師がどのような形で民権運動に参加したのかを明らかにすることは史料的制約から困難である。しかし、たとえば十四、十五年の『交詢雑誌』には、大嶋黙(小学教員)、山口重勝(師範学校教員)、小林有作(師範学校長)、松原秀成(中学教員)、武井音次郎(中学教員)、日置勝驥(師範学校教員)、岩井健次郎(小学校長)、浜野市次郎(小学教員)らが社員として名を連ねていた。また『福井新聞』にも、金津の鳳儀小学校で開かれた教育討論会後の親睦会では、若越改進党員阿部精らの演説があったこと、大野郡有終小学校の授業生が演説会を行ったとする記事がみられる。こうしたことから教師も少なからず民権運動に関与していたことが推測される(『福井新聞』明15・9・13、16・1・21)。 

 これに対して明治十三年(一八八〇)四月の集会条例によって、教員・生徒の政治集会・結社への参加が禁止されたことに加えて、県の取締施策として、十四年七月には教育学術などを目的として公衆を集め演説する者は、開会前日までに演題・場所・日時・演説者姓名などを警察署または分署に届け出るべきとする甲第九九号(十一月甲第一九三号で演題は届けなくてもよいことに改正)が発せられた。さらに、十五年二月には「何等ノ種類ヲ問ハス、学校ヲ仮用シ猥ニ集会ヲ挙行スルカ如キ恐レアル」ので「遊興弄戯ニ属スルモノ并ニ言論ノ猥褻詭激ニ渉ルモノハ、教育上妨害少ナカラサル」ので学校の使用を禁止する布達(丙第一三号)が出され、三月には公立小学校の教員はもちろん生徒も、学術演説を行うことが禁止された。また、翌十六年六月にも学務委員が講談演説会を開くこと、学校生徒が演説会に参加することを禁じたとあり、学務委員や生徒に対する取締りもきびしくなされていた(『文部省年報』)。


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